2021年1月31日日曜日

芥川竜之介の「点鬼簿」

 「かげろうや塚より外に住むばかり」

「歯車」に行く途中であることがひしひしと伝わってくる。まだ、「芋粥」や「鼻」、「羅生門」 などの芸術的香りは残っている。

私にとっての経済学

 経済学とはなんだったのかと、たまに考えたりする。

経済学が自分に研究への激しい動機、情熱を与えたことは間違いない。そこには、この世界を知るための鍵が隠されていると思った。それは間違いではなかった。

経済学のために、予定されていた人生の道が切り替えられてしまったとも言える。

振り返ってみれば、それは人生というグラスに入ったいっぱいのジントニックに過ぎなかったと思えるのだ。

芥川竜之介の「歯車」

気になった文章を最初にリストアップしておく。

 「長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。・・・・・・」

「「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』というのは読んだけれども。・・・・あれは君の自叙伝かい?」」

「僕は野蛮な喜びの中に僕には両親もなければ妻子もない、ただ僕のペンから流れ出した命だけであるという気になっていた」 

「それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった」

何十年か前にこの「歯車」は読んでいた。しかし、今読み返してみると、多分当時とは随分違った読み方をしていると思う。

かつては、これを一つの創作として、小説として読んだ。しかし、今は著者自身の独白として読んで、素直にそのリアリティを受け入れることができる。創作なのか独白なのかは、評論家的には決着がついているのだろうが、私にはそんなことはどうでもいい。かつては、創作として興味深く読んだが、今は独白として素直に読めるということだ。

もっと端的に言えば、その独白のまた近いところを自分が歩いていることに気づいたということであろう。誰もが、少し歩きかたを変えれば、「歯車」の側に行くことができるのだ。行くとことができるとは変な表現かもしれない。普通には、そちら側に行ってしまうと行ったほうがいいかもしれない。

もちろんここには「芋粥」や「鼻」にあるような芸術的な言葉は見当たらないが、そこには精神のリアリティを表現する言葉が連ねられている。

気候変動という地球環境問題

 気候というのは、地球の環境を作っている最も底辺のファクターである。

かつて、全球凍結ということが起こった。大型の生物のほとんどは死に絶えたろう。バクテリアなど、特殊な適応能力を持った種だけが生き残ったのではないか。

今凍結とは逆の、温暖化という形での気候の変動が始まっている。

気候変動は、たとえば、海面上昇による海岸線の後退や、あるいは国土の喪失ということが起きるだろう。それは、人間の世界に直接影響を与える現象である。しかし、人間も含めた全ての生物にとっての、根本的存在条件が変化するということである。

人間のAIがどんなに優れたものになったとしても、この変動による生物界の変化を正しく予測することは不可能だろう。AIは、既知のものの中に未知のものを解読する契機が存在しなければ、未知のものを正しく予測することはできない。

 

絶滅のシナリオ

 大きな時間的視野で現代を見ると、それは人類が絶滅する最初の一歩を踏み出した時代になるのではないかという気がする。

昔から人類絶滅の契機については関心があった。よく言われるような、核戦争では、人類絶滅には至らない気がするし、隕石の衝突については、考えても仕方のないことのように思える。

かねてから、人間はその知識によって絶滅するのではないかと思っていた。例えば、遺伝子操作である。これが人間の種としての脆弱性を引き上げて絶滅に至ると考えていた。

が、コロナ禍の中、もっと違うシナリオがあると思うようになった。

かつてエイズウイルスに人類がおびえた頃があった。私も実際怖かった。外国人と食事をすることすら、少し怖さがあった。が、今は、薬もだいぶいいものができて、死に至る病のような雰囲気は無くなっている。

その頃、一体どこからエイズウイルスが来たのかという議論があった。結論はまだしっかり確かめていないが、当時は、アフリカなどの未開の森林が開拓されて、そこで、サルなどの中に蔓延していたウイルスが人間にもたらされたのだという。サル自身にはさしたる症状はなくても、人には、深刻な症状をもたらすというわけである。

森林を伐採し、開拓しているのは人間であり、地球環境破壊の一つの主要なベクトルである。 ただ、この破壊というのはあくまで人間にとっての破壊であり、地球にとっては破壊ではない。なぜなら、人間もまた地球のパーツに過ぎないから。

地球温暖化という地球環境破壊もまた、ウィルスに関係している可能せはある。氷河や永久凍土の中から、未知のウィルスが発見されている。

人類の歴史は、700万年前まで遡ることができるとされている。しかし、その時間は、地球の生命の歴史から見れば極めて短い。人類生誕までに、地球では数回の大量絶滅が発生している。それらの時期に絶滅した多くの種と同様に、人類もまた、ある時期栄えていた一つの種に過ぎなかったと、地球の歴史に残る可能性はないとは言えない。

日本の本州、九州、四国にかつて、ニホンオオカミという狼の種が生きていた。が、1900年代はじめに、絶滅したと言われている。 絶滅の理由は、狂犬病や人間の駆除など諸説あるが、定説はないようだ。

ニホンオオカミのことを考えると不思議に思うことがある。それは、日本全体で絶滅が進行しているように見えることだ。狂犬病や駆除が原因ならば、地域ごとに特徴を持ちながら絶滅に向かっていくようにも思えるが、種の生存力が低下していったように、全国的傾向として絶滅に向かっているように見えるということだ。人間の絶滅も、あるとしたらそのようになるのではないか。理由不明のまま、世界中で出生率が低下していくとか・・・・。

新型コロナウィルス問題は、私の人生でも極めて特異な体験である。2020年2月ごろには、この問題を強く意識し始めていた。そして、その後の数カ月で最も強く感じたのは、核兵器まで持つに至った世界が、いかに無力なのかということである。アメリカの大統領ですが、事実上お手上げだった。人々は、日々死んでいった。

たった一つのウィルスにですら、人類の狼狽ぶりは深刻だった。しかし、新しいウィルスが次々と復活するような状況になれば、人類は打つ手がなくなっていくだろう。

たとえワクチンとか特効薬とか、対応手段が創造されたとしても、またそのことによって人類は滅亡に近づいていくような気がしてならない。ワクチンは、あくまで自然が人類を守るために持っていた力ではなく、人間自身が人間という肉体のために作り出したものであり、その長期的影響は、わずかばかりに治験者の結果だけを見て予測は不可能だからである。

2021年1月30日土曜日

自由の風

 今私が、政治結社を立ち上げるとしたら、基本政策はどうなるだろうかを考えてみた。

基本理念は、自由と公共との両立である。社会は自由主義を基本にしなければならない。これは明確である。同時に、自由が大切だからこそ、生きすぎた自由、社会の中での公共の働きを阻害するような自由は抑制しなければならない。これが理念だ。

新型コロナウィルスの問題は大きい。たとえ、このウィルスが収束したとしても、また新たなウィルスが現れるだろう。地球環境が激変しているのだ。本来人間の関わらなかったところの生態系が変化し、そこからウィルスが次々と放たれる事になる。ウィルスを早めにきちっと管理するシステムを持った国にならなければならない。

非正規雇用への過度の依存を是正するべきだ。大き企業、例えば100人以上を雇用している企業が非正規雇用をする数に応じて、税金を取る。一方、小さな企業での非正規雇用の乱用に対する抑制、正規雇用化への補助金をだす。

ベーシックインカムの導入トライアルの実施。

コミュニティ型の育児と学校教育。子育てと教育における地域の役割を高くする。地域の余力を新しい世代のために使っていく。

誕生日

 そういえば、今日は誕生日だった。66歳だ。明日からは、この年を意識しながら生きていくという、けじめの日である。

6のゾロ目である。人生最後のゾロ目である。77は、2このサイコロで出すことはできないので、ゾロ目と言わないのであろう。

芥川竜之介の「青年と死」

 よくわからない。何か背景があるのだろうが。最後の「龍樹菩薩に関する俗伝より」が秘密を解く鍵なのだろう。

芥川竜之介の「枯野抄」

 松尾芭蕉の死に際に直面する弟子たちの、単なる悲しみではなく、多様な方向に揺れ動く感情を微妙に描いている。

トルストイの「戦争と平和」における、べズーホフ伯爵の臨終に際して、その周囲の人々の複雑な反応を描いた一節に匹敵する。

ただ、自らの師匠の死に際して、ある意味、冷静すぎる。人は、大切な人の死を前に、感情のダイアルをしっかりと目的の周波数に合わすことは、なかなかできないものなのである。冷静な感情は、もっと後に生まれてくるものだと思う。よほど事前の計算や熟考がない限り。

芥川竜之介の「杜子春」

誰でも知っているストーリー。

 道徳的寓話以外の要素はあるのか?

2021年1月29日金曜日

芥川竜之介の「羅生門」

 あまりに有名である。

人が、自己の死を避けるために、自己の悪行を合理化する。その連鎖を描いている。「盗人にも三分の理」である。ただそれだけのことか?

下人は、盗人にならなければ、餓死するしかないところまで追い詰められていた。羅生門に登るまでは、良心に従って餓死するか、それを避けるために盗賊になるかという逡巡があった。

したいから髪を抜き取る老婆に出会って、迷いを断ち切り、盗賊になる勇気が与えられる。老婆の上着を盗んだのは、その勇気を確かめる意味だったのだろう。

では、下人は、良心に従って餓死するのが正しかったなどとは誰も言えない。

下人は、失業者だった。そのものを生かす力のない社会こそ悪である。

私が感動した表現を 記録も兼ねて残しておこう。階段の上に上がって、したいの間を動く光を見たときの描写だった。

「これは、その濁った、黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである」

 芥川竜之介の表現力の凄まじさである。言葉が、それを読むものに強烈なイメージを与える。それが、その著作の至る所でお目にかかる、芥川竜之介の神がかり的言葉である。

話は少し外れるが・・・・

二十数年前に起きた、池袋、母子餓死事件を思い出した。当時は、神戸にいた。ショックだった。が、今その池袋近くに住んでいることを不思議に思う。 ふと手元にある当時買った本をパラパラとめくったが、改めて悲しみがこみ上げてくる。

「悲しい日記:天国にいる夫へ」(冒険社、1996年刊)

「羅生門」の電子書籍

芥川竜之介の「孔雀」

 諸鳥は、本物の孔雀と孔雀の羽をまとったカラスを見分ける力がなく、どちらも殺してしまう。

 人間もまた、才のある人と、才あるかのように装ったものを見分ける力などない。真に才ある人を殺してしまうのだ。そしてこの世界は、凡庸な人間だけが右往左往生きているだけになる。

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芥川竜之介の「文章」

 言葉は人が書くものだが、書いた時から、その人との繋がりはたち切られ、独立した生命として生き始める。

書いた人の本心とは異なる命を持つ。これは、或社会主義者の中で、過去に書いた論文が、現在の著者とは無関係に、人に影響を与えていることと、響き合っているものだろう。

その意味で、やはり言葉はロゴスであり、魂なのだ。

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芥川竜之介の「鼻」

 「池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに他ならない」

傍観者の利己主義とは、他人の不幸に同情する気持ちと、その不幸が無くなれば逆にまたその不幸の中に陥れたいという感情が湧くことである。

ストーリーは、芋粥と似たところがある。渇望していたことが成就することによる悲哀である。

人間の本質に関わることだ。私がゼロを楽しもうとすること、あえてゼロになろうとすることと似ている。

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芥川竜之介の「蜘蛛の糸」

 あまりによく知られた短編だ。

カンダタを愚かな人間と笑えるものは、この世にはいないだろう。もしいたとしたら、ただ人間を路傍から眺めている聖者だけだろう。

「カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰を受けて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様の御目から見ると、浅ましく思し召されたのでございましょう」

お釈迦様には、人間を見る目がなかった。また、あの世に行った人は、天国には誰もいないのでは、ないだろうか。

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芥川竜之介の「或社会主義者」

 「彼」が社会主義者であることを信じながら、資本主義社会を登りつめていったということは、彼の抱いていた社会主義が、少なくとも彼にとっては、せいぜい、一つの玩具のようなものに過ぎなかったことを表している。

「私」は自由主義者になった。かつて共同社会の理想を語っていた頃は、自由主義の持つ汚らしい部分が許せなかった。が、あえてその醜さを飲み込んだとしても、自由というものの持つ力、限りない創造性を信じるようになった。

「彼」の書いた論文が、また次の世代の若者の情熱に共振したとしても、それは彼の責任ではない。

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芥川竜之介の「或阿呆の一生」

 一風変わった遺書だった。

なぜ「ある阿呆」なのか。蔑まれるべき自分をさらけ出したからなのだろうか。逆に、或阿呆としなければ、書けなかったことなのであり、又、そのようなものであっても描きたかったし、書かざるを得なかったものなのか。

あるいは、そこには、彼の近隣者しかわからない秘密の暴露があったのだろうか。

彼のナイーブな心が、いかに傷ついていたのかを示しているもんなのだろうか。

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芥川竜之介の「芋粥」

 ネット書房の公開epubサイトから、芥川竜之介の芋粥をダウンロードして読んでいる。

その中に、次のような文章があった。

「人間は、時として、満たされるか満たされないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまふ。その愚を笑うものは、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない」

実現不可能かもしれない夢に、人生を捧げることは笑われるべきことではないという主張であることは直ちにわかる。が、畢竟以下、「人生に対する路傍の人」とはなんだろう。人生をまっとうに歩んでいるのではなく、その傍らにとどまって、人の人生を眺めているだけの人間ということであろうか。もしそうであるならば、夢に人生を捧げる人間に対する最高の敬意を表現しているということになりそうな気がする。

最後まで読んだ。

五位は、芋粥を飽くほど食べられるチャンスを与えられるのだが、結局、それを夢見ていた時を懐かしむ。「飼い主のないムク犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐れむべき、孤独な彼である。しかし同時に、又、芋粥に飽きたいという欲望を、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼である」と。

芋粥を飽くほど食べることは、彼にとっては分相応の夢だったのであろう。しかし、それは、あっけなく実現してしまう。

利仁に悪意はなかったのであろう。あるいは、五位を出しに楽しもうということはあっただろうが、悪意はなかったと思う。又、その舅の有仁にもなかったであろう。

誰が悪いわけでもない。

そこに警句があるとするならば、夢というものの厄介さであろうか。

前日の夜、五位は、夢がすぐに実現することへのためらいを感じている。それが、後悔に変わったということもあるか。

 人生において夢を持つことが不可欠であることを述べると同時に、その難しさを書いている。と読むべきなのだろう。 

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2021年1月25日月曜日

和光市の樹林公園で無線

 購入したい同様アンテナを試すために、妻と、和光市の樹林公園に行った。私が無線機に向かっている間、妻はしっかりと散歩していた。短波のローバンドの電波が綺麗すぎて、板橋の自宅でノイズと格闘することがバカバカしくなる。


万物斉同

 世界の中で、人は自分の存在をより大きなものにしたいと思う。

しかし、その世界を小さいと思っている人以上には大きくはなれない。

行き着く先は、荘子の万物斉同である。

2021年1月23日土曜日

こもって、CW練習

冷たい雨が1日降っている。夜には、雪に変わるのだという。誕生日が近づくと、日本はいつも寒くなる。

朝夕の散歩以外、どこにも出かけなかった。朝の散歩では、マスクもせずにハアハア言いながらジョギングしているおじさんがいた。気分がいいものではないが、仕方がない。

小説を書こうと思っているが、今日はほとんど手をつけなかった。

CWの聞き取りの練習をしている。CWとは、モールス符号を用いた無線通信のことである。トンツーだけで、通信する。聞き取りが問題で、いろんな方法で、聴きとる練習をしている。ただ、一旦、頭に点と線のイメージで入った符号が邪魔になって、早い符号の列から読み取れなくなっている。

英語で言えば、人が英語で話したものを、一旦英語の文章でイメージして意味を考えるようなものである。いつまでたってもしれでは頭に入ってこない。それと同じだ。

CW更新では、音を直接アルファベットに変換しなければ どうしようもない。だから苦労をしている。一旦、点と線のイメージを忘れたいのだが、そう簡単にはいかない。音を聞くとついそれを思い浮かべてしまう。

まあ、気長に、粘り強くやるしかない。



2021年1月22日金曜日

名前

 ふと、名前とはなんだろうか、と考える。

現代社会では、名前の役割は決定的に大きい。

近代以前は、女性が姓を持たなかったなど、名前の役割が今ほど重要ではなかったと考えられる。身分や組織の中での所属や、家族の中での位置が大切で、名前はその次くらいの役割しか与えられなかったのではないかと思う。

映画「千と千尋の神隠し」では、別世界の中で、ちひろは名前の一部を失ってしまう。同時に父母も時間も、彼女の世界も失ってしまう。異次元の世界の中で、彼女の元の名前を維持することはそれほど大切でもないのかもしれない。

全く別な話だが、カフカの「虫」という小説を思い出す。ある朝起きたら、グレゴリーザムザは、虫になっていた。その現実の中で展開することが詳細に、ある意味、リアルに描かれていたと思う。かつてカフカの全集のようなものを持っていたが、今は手元にないが。名前と心は持っていたが、体を失ってしまった悲しい物語だ。

蝴蝶は蝶になったが、また周に戻っている。

前近代では、武士や貴族は、元服した時などに名前を変えていた。それはまた、社会の中でのステータスの変化を示していたものだろう。

歌舞伎町などでは、源氏名というのものある。芸名というのもある。人はその役割を変える時、別な名を持つ。ある意味それは不自然ではないことなのだろう。

私も一応「わっしー教授」という芸名を持っている。この名前を使う限り、私は芸人となる。

「名を捨てて実を取る」という言葉がある。この言葉を見る限り、名前は、仮想的で、形式的なものでしかないことのようだ。この場合の名は、この場合の名は辞書的には、「名誉や名声などうわべの体裁」 らしい。ということは逆に名前というのがそのような側面を持っていることを意味している。

ある人から、単に名前を奪ったり消したとしても、実体としてのその人は少しも変わっていないように思う。

だが本当にそうだろうか。名前を奪うとどうしようもの無くなるので、突然名前が自分の知らない名前に変わってしまったらどうなるだろうかと考える。自らが意識する名前と、社会がその人間に帰属させる名前が異なってしまったらどうなるだろうかということだ。

社会は少しも混乱しないだろう。元々その人はその名を持ったその日だだからである。しかし、本人は大いに戸惑うだろう。 おそらく、自分がなんだかわからなくなるだろう。彼は自分の内側にあるものはまちがいなく認識している。しかし、社会との関係は全て名前を媒介にしているからだ。

そこにも、内側と外側という問題がある。内と外をつなぐものが名前なのだ。内側に見えている自分以外の人間との関係がわからなくなってしまうのではないか。

2021年1月21日木曜日

河川敷の女

 今日は平日だ。

荒川の河川敷は、ゴルフに興じる老人たちが元気な声を張り上げていた。散歩をする老人もいる。

子供連れの父母が散歩をしていた。どちらかの仕事が休みなのか、在宅勤務のどちらかが休憩なのか。

中で、私の無無線をやるすぐそこの階段の上でスマホを熱心にいじる若い女がいた。そんなにしっかり見ることもできないのでよくわからないが、何れにしても、マスクで顔を隠しているので、詳しい雰囲気はわからない。

同じように今日休日の仕事人か、授業がリモートになっている学生なのか、わからない。

かなり近い、我々との距離を考えると「自分はここが指定席なのだから。あなたたちがよそ者でしょう」と主張しているようにも見える。

こちらに、色々の、勝手な想像が膨らむ。

ただスマホをやるためだったら、いつも生活している家の中でよかろう。そこにいたいと思ったのだ。いることの手持ち無沙汰の合間を、スマホいじりで潰しているのだろうと思う。

熱中する趣味も、熱中する男もいないのだろうと思う。それとも、昼の散歩コースなのだろうか。

荒川にて


 潰れかけた東京の心から逃れるように、妻と車に乗って浮間公園に出かける。本来自粛なのかもしれないが、このまま家にいたら潰されてしまうように思った。冬の空、快晴の空、紺碧の空。

無線機FT-991Aとアンテナを設定する。短波帯はうまく受信しない。430MHzバンドと2mバンドはいつもの通り機能した。

妻は、河川敷を散歩していた。

階段の上で、若い女がスマホをいじりながら座っていた。

「川はどこに流れているのかしら」と妻が言った。確かに川筋が見えなかった。おそらく、運ばれた土がおもちゃの山並みのように川中に走っている。その隙間を流れているのだろう。

2021年1月20日水曜日

ゼロの認識

 なんだかわかっていなかったようだ。

自分は今、ゼロなのである。ゼロだから迷い、ゼロだから苦しみもあるが、ゼロであるから清々しく、ゼロだから新しい始まりを迎えることができるのだ。

人間、時代、神

 人間は時代という怪物の下僕でしかないが、時代は神の下僕である。

日記を書こうと思った

 全てが、手応えのない存在のように思える。

今、世界はコロナに翻弄されている。私は、閉じこもっている。何かをやろうとするが、物足りなさがつきまとって本気になれない。私の脳に、世界がどう見えているのか、それを表現するための最も良い方法が日記ではないかと思った。

昨日、神戸大学時代の自分の研究関連のファイルを見ていた。その前と、その後と、多くのことを考え、多くのことを表現してきたと思った。でもそれらは全て過去のものだ。今の時代の中に生きている自分が表現すべきものを考えたい。

表現が基本だ。生きているということは表現することと同じだ。どう生きるかは、どう表現するかということだ。表現の媒体は「言葉」なのだ。絵でも音楽でもない。私は言葉で表現したい。言葉で生きたい。その手がかりが日記だと思った。

言葉を選び固定すること、言葉を書くことには時間がかかる。言葉は、心の中にあるものと同じか、それ以上のものを表現する。創造である。創造された表現になっていく。画家が絵を描くこと、音楽家が五線紙に音符をかくことと同じだ。言葉が表現であるならば、言葉は命なのだ。混じり気のない自分を、鮮烈に表現するものは言葉だ。ロゴスなのだ。

全てが、手応えのない存在だとしても、言葉は確かな存在だ。自分以上の存在となる。

明日は出かけよう。

将軍と兵士

 歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。 そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろ...