2021年3月30日火曜日

死と共に生きる

 59歳の3月、三本あるうちの真ん中の一番太い冠動脈の根っこを100%つまらせた心筋梗塞になった。人生最大の胸の痛みに直面したのは、午前10時過ぎ自転車で移動していた時で、近所の大学病院に向かおうと思ったが、どうにもならずに途中の散髪屋さんに駆け込んで救急車を呼んだ。そのままだと死ぬところだったが、運ばれた病院で詰まった血栓を取り終えステントを入れて血流を回復させたのがお昼過ぎだった。辛うじて生き残った。心臓は結構な範囲死んでしまっている。まあ、心臓は通常生活を維持するのに必要な能力の10倍の能力を持っているという話で、数十%が死んでも大丈夫みたいだ。体を動かすのになんの不自由もなく、走ることもできるし、ほぼ普通に生活している。あれから7年。

 64歳の9月に今度は脳梗塞になった。その日は台風の通過する日で、朝の4時ごろ目覚めてしまって、なんやかやと机のパソコンに向かっていた。が、途中から意識がおかしくなった。キードーを変に動かそうをしている。よくよく気づくと、右半身が正常に動かない。起きあがろうとして、机の横にばったりと倒れてしまった。右手右足が動かないから、当然そうなる。家族を呼ぶ元気はあったみたいで、救急車がやってきた。不思議なことに、救急隊員が来ることには、なんだか普通になっている。特に治療らしい治療はしなかったが、色々検査をして、脳梗塞であったことは間違いないようで、一部壊れた脳の様子を写したMRI画像が私のスマホには入っている。こちらも、そのご、大学の講義も、研究も、日常生活も普通にやれているので、深刻な事態にはならなかった。あれから1年半。

悪運が強いのか、どうかはわからない。ただ、はっきりと意識していることは、私はいつ死ぬかもわからないということだ。いつも、死神が隣に歩いている、死神が私の肩をいつでも叩ける近くにいながら歩いている、という気持ちで生きている。日々、死ぬことを前提に生きている。明日死ぬとしたら、今日の生き方は後悔のない生き方かどうかを常に自らに問いかけながら生きている。何年も先を生きてたいと思うし、あれやこれや夢想することもあるが、当面日々の生き方が大事だと思い続けている。

おそらく神様は、「お前の生き散らかした人生をすこしなんと片付けてからにしろ」と言っているのだと思う。振り返ってみれば、いろんなことをやってきた。それもあるが、一番中心の研究でも、やりっぱなしの研究、書きっぱなしの原稿がたくさんある。差し当たってそれらをきちんと整理しなければならない。 

人が死んでも魂は生き残るという話はここに書いた。生き残った魂は、自分の今の魂のクローンである。そのクローンの魂は、生き続けるだろう。生き続けるというのは、私が死んでからも形を変えたり、成長したり、堕落したり、七転八倒しながら生き続けていくということだ。だから、そのクローンの魂が、生きやすい環境を、私が生きている間になんとか作れないかと思う。それは、半分クローンの子供たちや四分の1クローンの孫たちが生きやすい社会であってほしいという願いに、どこか共通しているものだ。魂のクローンのために、今何をしなければならないかを考える。

私は座して死を待つような生き方をしたくない。常に緊張の中に身を置きながら、何かに挑戦しながら生きていたい。挑戦とは激しく行動することをかならずしも意味しない。成功が約束されない努力をすることだ。集中することだ。そういう気持ちで時間を最後まで過ごしていきたい。

2021年3月27日土曜日

挑戦する人々

 成功を保証されていることは挑戦の対象にはなり得ない。失敗するかもしれないことをあえてやることを挑戦というのだから。

人生を賭けて挑戦することもある。人生はそう何度もないので、かけがえのないものをかけた挑戦だ。したがって、そこに失敗もある。失敗しても、生きていれば次の挑戦ができるし、挑戦しない人生を選ぶことだってできる。

時間が一方向に流れているために、挑戦した時間を取り戻すことはできない。同じ環境と同じ自分で、同じ挑戦が二度できることはない。

だから、世の中には人生を賭けて挑戦をし、結果、夢破れる人はたくさんいる。しかし、その挑戦が公共の福祉に反しないものであるならば、それを「無謀なことをして愚かだ」と嘲笑する人は下品な人だ。下品な人たちが席巻する社会はいずれ没落する。

「ファイト、たたかう君の歌をたたかわない人が笑うだろう」という歌を聞くと、そんなことが心に浮かぶ。

生き残る魂

 人の肉体は死んでも魂は生き残る。宗教的な霊魂の話をしているのではない。ここでいう魂とは、人の心といっても良いが、心というものの定義がまた複雑になる。私のいう魂とは、その人に対する他者に共有されている思いであり、それらの共鳴である。だから、実体あるもので、幽霊ではない。

したがって、そんな魂は死んだのちには不変なものになるかというと、そうではなく変化し、また生き続けると思う。私の心にも、多くの死んだものたちの魂が生きている。

生き残っているものにとっての魂は、それはあるだろうが、死ぬ側にとっては無駄な議論だと思うかもしれない。しかし、例えば仮に私の完全なクローンがいて、そちらは私の死後も生き残ったとする。一見、ああ、自分が生き残っていると思うかもしれないが、死ぬ側の私にとっては、死という事実から逃れるわけではない。それでも、私は私の死後も生き続けるなどという言い方ができなくもない。魂も同じだ。そのような意味で、クローンが生き残るのと同じである。肉体の死によって全てがこの世界から消失してしまうわけではない。

死者を理解することは、その魂を理解することだ。

2021年3月26日金曜日

論文「社会システムと個人(草稿)」

 個人の合目的的行動が社会全体として一つの全体的構造を形成することを、天潤なモデルのシミュレーションで示した。それによる社会のアクティビティの変化、個人の格差のジニ係数による測定などの閣下を示している。まだ、草稿ですので、文言の誤り、内容的誤り等多々あるかと思いますが、ご指摘いただければ幸いです。以下から自由にダウンロードできます。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

ダウンロード

シミュレーションの動画は以下のyoutubeチャンネルでご覧になれます。

https://youtu.be/QWbOep92ZlY 

 

なお、使用したJAVAプログラムについては、こちらの記事に、ダウンロード方法をお知らせしています。 

2021年3月24日水曜日

論文「社会システムと個人」で使用したJAVAプログラム

 現在書いていて、近日中に描き終わると思うが、論文「社会システムと個人」の中で使用しているプログラムをダウンロードできるようにしました。プログラムソースのファイルは、JAVAの開発ツールである Netbeans用のものです。zipファイルを回答して、netbeansからひらけば、ソースを確認できます。プログラムの中で、データフォルダが異なっているので、OSごとに変更が必要です。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

ソースのダウンロード

JAVAの実行ファイル(非推奨)。jarファイルで、javaが使える環境であれば、OSに依存せず実行できるはずです。ただし、データフォルダの変更がプログラムの中でしかできないので、OSによってはえらーになります。また、数字やグラフなどの表示位置がズレる可能性はあります。zipファイルを解凍し、フォルダーの構造を変更しないようにしてください。そして、SocioPersonal.1.5.jar ファイルをダブルクリックするか、それで起動しない場合は、OS付属のターミナルソフトをひらいて、

java -jar SocioPersonal.1.5.jar

とjavaコマンドを打ってください。

jar実行ファイルのダウンロード

ついでに、シミュレーション結果の解析プログラムもnetbeansソースの形で提供しておきます。シミュレーション後に、ジニ係数をサイクルごとの変化を追いながら計算できます。

分析ツールのダウンロード

以上のすべてのプログラムについては、まくまでも、自己責任での使用をお願いします。

2021年3月20日土曜日

Ubuntuのディスプレイ設定

 1時間無駄にした。

LinuxはUbuntuで使っているのだが、昼めしが終わって起動したら、ディスプレイの解像度が極端に落ちていた。

グラフックボードは Gforce GTX 1050なのだが、

$ nvidia-smi

とやっても、グラフィックボードが見つからないと言われる。ドライバがおかしいかと思ったが、

https://qiita.com/bohemian916/items/7637b9b0b3494f447c03

ここをみたら、カーネルのバージョンアップに伴って、グラフィックボードを認識しなかった可能性があることがわかった。ほぼこの通りにやったら、元通り正常に表示するようになった。

 具体的には、Ubuntu起動時のGRUBメニューを一瞬(5秒)表示させるようにしているので、そのときに通常起動ではなくAdvanced Optionを選択し、その後表示する起動オプションで、一つ前のカーネルを選択するともとに戻る。あとは、上記サイトにある、GRUBの設定ファイルを書き換えて、自動的に旧バージョンが選択されるようにすれば、もとに戻るわけである。GRUBメニューの表示はやめようかと思ったが、表示させるようにしておいてよかった。面倒を一つ省くことができた。

なお、 私の場合は、

  Ubuntu, with Linux 5.4.0-67-generic

Ubuntu, with Linux 5.4.0-66-generic

Ubuntu, with Linux 5.4.0-65-generic

の3つがあって、2つ目のカーネルに戻したら治った。二度とこの問題では無駄な時間を使いたくないので。ここに書いておく。 


 

2021年3月19日金曜日

K.マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」

 そのテーゼを読んだのは学生時代のことだった。それから、人間に対する見方が大きく変わった。マルクスのフォイエルバッハに関する第6テーゼである。

 「人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である

このテーゼは今日まで私の頭の中で生き続けている。当時、自己は意識している唯一の自己以外に何もないと自然に思い込んでいた。したがって、肉体があり意識がある自己が存在し、それが自己である。しかし、こうすると、自分がなんなのかがわからなくなる。そんなときに出会ったのがこのテーゼである。

マルクスがどのような意図でこのテーゼを書いたのかは問題ではない。それを考えると、マルクス主義者によくあるドグマの沼に落ち込んでしまう。このテーゼだけを切り離して考えても、そのドラスティックな内容に圧倒される。

私という存在は、社会関係の中でしか定義できないと、私はこのテーゼを読み込んだ。それはある意味当たり前でもあった。私は誰の子供であり、私はどの大学の学生であり、どのようなゆうじんがいるなどなど。そういう社会的連関を全て辿れば、間違いなく私というものに出会える。

私の肉体の中に、精神の中に自分を探すのは一面的な私の理解に過ぎない。

マルクスは、資本論においても、彼のいう資本家とは生身の人間ではなく、資本の人格化した存在だと繰り返している。資本とは、それ自体が社会関係の中でのみ存在できているものであり、社会関係そのものであると言っているのに共通している。

このテーゼで目を開かれたのは確かだが、ただ、マルクスと同じ認識ではない。社会関係の中で定義できる人間が本質的だとマルクスは言っているが、私は少し違っている。認識論的に、関係から切り離して、あえて一個の肉体として、精神を内包している肉体として存在している人間もまた本質である。人間とはそういう意味で二重化された存在なのである。

そして、マルクスがいう人間的本質とは、私から言えば人間のアイコン的側面、より明確には記号的側面の本質性を言っている。もう一つ絶対固有の遺伝子をもち、固有の環境の中で育ってきた実態的人間の本質性が素材するのである。人間とはそういう意味での記号と実態の二重化した存在なのである。

その人間の二重性を素直に受け入れることがとても大切だと思っている。

 

わが家の桜


 昨年初めに芽が出たわがやのさくらも、春になって葉っぱを吹き出した。枝も少しずつ伸びている。

  この桜は、石神井川の歩道に落ちていた、ソメイヨシノの種が発芽したものだ。ソメイヨシノは自己受精しないそうなので、これはソメイヨシノと他の何らかの桜のハーフということになる。だから、どんな花をつけるかはわからない。まだまだ先のことになりそうだ。

枝を切ると花を咲くかせるのが遅れそうなので、伸び放題にするつもりだ。去年は秋まで、二階のいまの窓のところに置いておいた。そこで1メートルの樹高になった。秋になって一階に下ろして駐車場の端に置いておいた。

 今年はこの写真のように、屋上に持ってきて、光をたっぷり受けるようにしてやった。アンテナの横に置いている。

 毎日二、三回見るために屋上に行く。少しずつ枝が伸びていくのが見えて癒されている。

2021年3月18日木曜日

論文「並列交換均衡と格差(草稿)」

並列交換均衡がほぼ自動的に格差を生み出し、さらには貧困の発生の道をつけることをシミュレーションとともに示した。シミュレーションには、2496コアの計算専用グラフィックボードを使用した。プログラムは前の記事にあるように別に公開している。

 まだ、荒削りな草稿で、ろくに誤字脱字も直していないが、急いで次の論文に入らなければならないので、暫定的に公開しておく。誤字脱字、内容について、ご意見、ご批判などあれば是非とも、お聞かせいただきたい。 (Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

  論文草稿ダウンロード

2021年3月16日火曜日

並列交換均衡と格差:プログラムの公開

 現在書いている論文「並列l交換均衡と格差」のなかで、実行に使用したシミュレーションプログラムを公開すると書いている。以下からダウンロードできる。使用に関しては自己責任で行っていただきたい。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

プログラムダウンロード

 このプログラムは、NVIDIA製のグラフィックボードで、ある程度のコア数を積んでいることを前提としている。10000人で、財の種類が100種類のモデルの計算を行うために使ったが、モデルの規模が小さければ通常のグラフィックボードで計算できるだろう。CUDAという並列計算用にC++を拡張したキットを用いてコンパイルされなければならない。

私の論文では、TESLA K20という2496コアの計算専用GPGPUでおこなった。通常のグラフィックボードでも実行可能である。

ヘッダーに書いた日付は作成し始めた時期のものになっているが、ほとんどのプログラムはここ1ヶ月内に書き直したものである。

2021年3月5日金曜日

生活保護世帯数の推移

 

生活保護世帯数は、バブル後から現在まで倍以上になっている。近年は、あまりに急激な増加に抑制が働いているのではないか。

中流階級の没落と低所得層の復活

平成30年国民生活基礎調査」の「世帯数の相対度数分布−累積度数分布,年次・所得金額階級別」をグラフ化した。


 これだけでは、どれがどの曲線に対応しているかわからないので、とても醜いが、特徴は、1990年代初頭のバルブ崩壊ののち大きな社会構造の変化が起こっているということである。2008年のリーマンショックによってそれがより固定化したと言える。


わかりやすく3階級に分類した。低所得階級は、バブル前に戻ったが、それは変わらなかったということではない。この図で表示されている期間は33年間あるので、人口は大きく変わっていないとすると、この33年の経済成長の恩恵はこの階級に何ももたらさなかったことになる。それは高額所得階級にほとんど吸い取られてしまっている。そして、中流階級は、持続的に没落している。

高齢化による年金受給者が増加していることは考慮しなければならないが、これらの傾向を覆すほどの影響はないと予想している。

2021年3月4日木曜日

ベーシックインカムの向こう

 昔、自分の子供に「働かざる者食うべからず」と言ったあと、すぐにその間違いに気づき謝った。

どのような状況にあっても、社会は人に、生きるために必要な手段を与えるべきだ。

ベーシックインカムの向こうにある社会は、社会の富をより多く自分のもにしようとする行為が異常に見える社会だ。

K.マルクス『資本論』

五つの大学に勤めてきて、大学を変わるたびに大量の本を捨ててきた。数えてはいないが、数千冊捨てたことになるだろう。それでも、最後の上智大学を辞めても捨てずに、持ち続けた本がいくつかある。そのうちの一つがマルクスの資本論である。

久しぶりに資本論を、引っ越し箱から出してきた。

 

全3巻、5分冊。学生時代に第1巻だけは読んで、その後卒業してから1、2年のうちに3巻全部を読んだ。その後マルクスエンゲルス全集を買って、剰余価値説などを読み、さらに、別巻でその頃出版され始めた資本論草稿集もかなり読んだ(全部はさすがに読めなかった)。

資本論を初めて見たのは、高校時代だった。そのころ長編小説を漁って読んでいたのだが、本屋に行った時に見たこともない長編の本が置かれていた。それが資本論だった。しかし、ノンポリの自分には何が何だか分からなかったが、印象は消えなかった。

1巻を読んでいた学生時代、どうしても分からないところがあったので、大学の経済学の先生に質問に行ったことがある。質問も回答も記憶にないが、学生時代、経済学の先生に質問したのはそれが最初で最後だった。

資本論は偉大な本だ。現代の経済学、私が大学院時代に習った経済学は、この資本論からかなり離れたものだったが、この本は、資本主義社会の本質を描いている。経済現象の説明力はあまりない。それは現代経済学の方がはるかにレベルが高い。しかし、それは説明に過ぎないのだ。社会の本質を描く学問ではない。マルクスの資本論は説明力はないが社会の本質を描写している。学問の目的がそもそも異なっているのだ。

近代の経済学もマルクスの経済学も、どちらも有用なものだ。人が生きていく上で必要とする視座を与えてくれる。

今日の大学の経済学の分野から、マルクスの経済学が失われてしまったのは残念だがやむおえない。マルクスの経済学を研究していた人たちの多くが、現代の経済現象の説明もその枠組みで語れると錯覚していたからだ。マルクスの経済学はそんな風に使われるべきものではないのだから。

将軍と兵士

 歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。 そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろ...