59歳の3月、三本あるうちの真ん中の一番太い冠動脈の根っこを100%つまらせた心筋梗塞になった。人生最大の胸の痛みに直面したのは、午前10時過ぎ自転車で移動していた時で、近所の大学病院に向かおうと思ったが、どうにもならずに途中の散髪屋さんに駆け込んで救急車を呼んだ。そのままだと死ぬところだったが、運ばれた病院で詰まった血栓を取り終えステントを入れて血流を回復させたのがお昼過ぎだった。辛うじて生き残った。心臓は結構な範囲死んでしまっている。まあ、心臓は通常生活を維持するのに必要な能力の10倍の能力を持っているという話で、数十%が死んでも大丈夫みたいだ。体を動かすのになんの不自由もなく、走ることもできるし、ほぼ普通に生活している。あれから7年。
64歳の9月に今度は脳梗塞になった。その日は台風の通過する日で、朝の4時ごろ目覚めてしまって、なんやかやと机のパソコンに向かっていた。が、途中から意識がおかしくなった。キードーを変に動かそうをしている。よくよく気づくと、右半身が正常に動かない。起きあがろうとして、机の横にばったりと倒れてしまった。右手右足が動かないから、当然そうなる。家族を呼ぶ元気はあったみたいで、救急車がやってきた。不思議なことに、救急隊員が来ることには、なんだか普通になっている。特に治療らしい治療はしなかったが、色々検査をして、脳梗塞であったことは間違いないようで、一部壊れた脳の様子を写したMRI画像が私のスマホには入っている。こちらも、そのご、大学の講義も、研究も、日常生活も普通にやれているので、深刻な事態にはならなかった。あれから1年半。
悪運が強いのか、どうかはわからない。ただ、はっきりと意識していることは、私はいつ死ぬかもわからないということだ。いつも、死神が隣に歩いている、死神が私の肩をいつでも叩ける近くにいながら歩いている、という気持ちで生きている。日々、死ぬことを前提に生きている。明日死ぬとしたら、今日の生き方は後悔のない生き方かどうかを常に自らに問いかけながら生きている。何年も先を生きてたいと思うし、あれやこれや夢想することもあるが、当面日々の生き方が大事だと思い続けている。
おそらく神様は、「お前の生き散らかした人生をすこしなんと片付けてからにしろ」と言っているのだと思う。振り返ってみれば、いろんなことをやってきた。それもあるが、一番中心の研究でも、やりっぱなしの研究、書きっぱなしの原稿がたくさんある。差し当たってそれらをきちんと整理しなければならない。
人が死んでも魂は生き残るという話はここに書いた。生き残った魂は、自分の今の魂のクローンである。そのクローンの魂は、生き続けるだろう。生き続けるというのは、私が死んでからも形を変えたり、成長したり、堕落したり、七転八倒しながら生き続けていくということだ。だから、そのクローンの魂が、生きやすい環境を、私が生きている間になんとか作れないかと思う。それは、半分クローンの子供たちや四分の1クローンの孫たちが生きやすい社会であってほしいという願いに、どこか共通しているものだ。魂のクローンのために、今何をしなければならないかを考える。
私は座して死を待つような生き方をしたくない。常に緊張の中に身を置きながら、何かに挑戦しながら生きていたい。挑戦とは激しく行動することをかならずしも意味しない。成功が約束されない努力をすることだ。集中することだ。そういう気持ちで時間を最後まで過ごしていきたい。
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