自己と他者そして社会

 人はかなり幼いときに、自己と他者を区別するようになる。そこに自己というまとまった概念認識があるとは思えないが、自分だけでは空腹を満たすことができないので、泣いて母を求める。

他者にとっては自分も他者であることに気づくときはいつ頃であろうか。私の記憶は不明瞭で、幼児のことは詳しくはわからない。

そのような他者は、母以外にも、たくさんいることに そのうちに気づく。その他者の集団に、まず家族があり。更にその外側に別の他者の集団がある。

関わりの深い他者の集団は家族だが、さらに学校というものが抜き差しならない他者の集団となる。そして、学校を出れば、社会人と言われるように、本格的にその他大勢の集団としての社会というものに向き合うことになる。

人はこの他者の大集団としての社会に関わって生きていかなくてはならない。

この社会という他者の集団の一つの大事な特徴は、その集団を構成する誰から見ても、自分もまた他者なのである。自分は自己であるとともに他者でもある、そういう二面性を持った存在である。自分の中にある自己性と他者性を意識しながら人は生きていく。それは、同時に自己がこの社会の一員であることを意識して生きていくことである。

この社会の中で、人は他者とどう関わっているのだろうか。

人と他者の関わりは、人と他者の関係と言ってもいいし、あるいは、つながりと言ってもいいし、接触するという表現もあるだろうし、さらには、同時に複数の他者と関わっていれば、ネットワークと言ってもいいし、いろいろな表現があるだろう。 

人が関わっているのは、社会の部分集合ではあるが、人は、その部分集合が集まっている、より包括的な集合があることを知っている。その他者の集合には、何らかの構造があるものだ。家族には、極めて原始的な形の構造を持っている。さらに、学校という場には、より洗練された構造を見ることができる。

しかし、まだ構造に行く前に、もっと基礎的な人と人との関わり、自己と他者の関わりの内容を見ていかなければならない。そもそも、その関わりとは何であろうか。

乳児にとって初めての他者は、その名の通り彼に乳を与えてくれる存在であり、あるいは、衣服を着させてくれて、排泄物を処理して、心地よさを与えてくれる存在だった。これは一方的なものであるかのようだが、必ずしもそうではない。父母にとっては、ほとんどの場合、自らのことしての乳児から、彼らの愛情の対象としての乳児に与えたことによる、愛情の対象からの癒やしや満足感などの好ましい感情を受け取っているのである。すなわち、乳児もまた与えるものに与えているのである。乳児が父母に与えるものは、全てが好ましいものではないかもしれないが、それはお互いにありうる。好ましさの程度は負であることも含めて、互いに与えあっているのである。

この相互的行為を、最も一般的な意味で交換ということができる。

たしかに、人と人との関わりには、完全に一方的なものもありうるが、それは極めて稀であって、何らかの交換が行われていることに気づく。

いきなり、より進んだ、特殊な例を出すようだが、たとえば、人がテレビを見るという行為は、放送を提供する他者の集団との関係では、一見一方的なようだ。しかし、見る側は視聴する行為によって、放送する側に、視聴率という形で影響を与える。そのような意味では交換なのである。

他者と関わる一般的な交換を媒介するものは多様だ。それはモノであったり、行為であったり、言葉であったり、様々な形が存在する。最も広い意味では、自己の前に他者が存在するということだけでも、一種の交換が行われていると考えることもできる。すなわち、自己と他者という存在そのものが、もっとも抽象的な意味での交換なのである。なぜなら、自己にとっては他者はその存在を意識できる相手だが、他者にとってもまた同じような存在となる。交換というのは、そこまで抽象化が可能な概念であることをここで確認しておきたい。

経済学や文化人類学における交換や互酬は、私がここで言う交換の特殊な存在形式であると考えていただいたら良い。経済的な行為である、貨幣とモノやサービスるの交換は、私の言う交換の一つの形であることはまちがいない。


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