2026年8月26日水曜日

業偏屈とは

 最近AIと対話していて、自分は業偏屈なんだと思った。
「業偏屈?なにそれ」と、大概の方は思うだろう。これは私が作った言葉だから、日本語にはない。疑問を持つのは当然だ。

もともとAIとの対話の出発点は、イーグルスの「Desperado」という歌の歌詞をどう解釈するかだった。Desperadoとは荒くれ者、無法者、西部劇に出てきそうなただひたすら悪者のキャラである。その言葉にそれほど深みはなく、英語圏の人はただただそういう無法者をイメージするらしい。ところが、イーグルスがそれを愛すべきバラードのタイトルとしてしまったから、その言葉に少し違う、深みのあるニュアンスが乗ってしまった。それがどんなニュアンスか、感情かについて、正解はない。その正解のない感情について、それはなにか、AIと対話したのだ。

私はその歌は確かに、その自分の生き方にこだわり、人の愛も簡単に受け入れず、クインーよりダイヤのトランプを求め、自由への心情のもとに壁を作り塀の上に乗り続けて自ら孤独を求めるような生き方をするあいてにたいして、たしかにそれを悲しんで、諭している言葉が並んでいるのだけれど、その生き方を愛おしくおもい、受けれているような感情が伝わってきたのだ。そして、自分の生き方は、この差とされている側の人間の感情に近いと思った。そして、AIにこの愛おしさと受容をまぶしたDesperadoに対応する日本語はいのかとぷろんぷとをかいたのだった。AIが出してくる言葉に、なかなかしっくりするものはなかったが、最後に、「業」という言葉と「偏屈」という言葉を出してきた。偏屈とは、変わり者のことだ。人格の偏りがあるレベルを超えている感じだ。ただそれは、おそらく「狂気」まではいかない。ある意味それなりの中途半端さを持っている。偏屈だけだったら、愛おしみ、受容されるというニュアンスを含むことができない。しかし、それに「業」という言葉が連動すると一挙に状況が異なってくる。業とは、その本人の意志ではどうにもならない、受け入れざるを得ない、輪廻転生の果にあらわれるものであり、前世までの行いの全ての結果から成立する自分の成り立ちである。当人の責任ではないものに、当人が振り回される、可哀想な状況になってしまうのである。行に支配された人間の哀しさと、それを憐れみ、しかしその業を全うしようとする、業に従わざる得ない、その人間を愛おしむ感情がつきまとってくる。業がもたらす偏屈に対するおかしさ、愛おしさが表現したい感情にかなりピッタリと来たわけである。

自分が業偏屈であると自覚し、少なくとも自分の中ではそう自分を表現することによって自分に対する愛おしさ、受容性を感じることが、鮮明になる。自分というものに対する愛おしさが、自分が業偏屈と表現されれることによって対象性が明確になる。

2026年7月4日土曜日

「嚶鳴寮の時代」とはなんであったのか

 神戸大学に赴任したのは40歳の時だから、31年前だ。その頃、昔、学生だった同じ時間を共有した嚶鳴寮生用にメーリングリストを立ち上げた。最近は30人ほどが登録していた。長年、運用と管理をしてきたが、それを一方的(全体の了解もなしにの意)に、今度閉鎖することにした。その時の通知文をここにコピペしよう。

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嚶鳴寮OBのみなさま、鷲田です
雨の日が続いて鬱陶しいですが、みなさまは、お元気でお過ごしのことと拝察いたします。このMLですが、すでに集いの場としての役割を終えていますので、今月の下旬、およそ20日以降に停止の手続きをしたいと思います。

メーリングリストというコミュニケーション手段は、昭和レトロそのものなので、使い勝手も悪く、アカウントにぶら下がっていて、メンテナンス自体も、色々気にしないといけないので面倒です。
私が神戸大学に赴任した頃に始めたので30年ほど続けてきました。特に終活というわけではありませんが、もうenoughという感じです。
これからは、必要な方は、LINEグループなり、SNSでやり取りすることが適切だと思われます。
私も経過は忘れましたが、下の学年の寮生の小さなグループになんだか入っていて、誘われてたまに東京で飲んだりしています。
ここでお会いすることはもうなくなりますが、私としては、たとえ先が短くても、精一杯、失敗を恐れず、人生をかけた挑戦の日々を続けていく決意です。
みなさまにも、今後も健やかに、楽しい日々を過ごされることを祈念して、終わりの挨拶にします。
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なんともぶっきらぼうな文章だ。反発を感じた人もいたと思う。「勝手にやめるな」と言われれば、どうするか考えたかもしれないが、そんなことを言う人はいないだろう。それほどの熱意をこのMLに持っていれば、もっと違う参加の仕方をしただろうと思う。

このMLで実現したかったのは「今の嚶鳴寮」を仮想的に再現することだ。あのコミュニケーションのるつぼのような寮を、今生きている人で、このML上で再現したかった。しかし、それは無理だった。

過去の嚶鳴寮では一方的なコミュニケーションにはならなかった。双方向性は必然的なものだった。なぜなら、口から発した言葉が相手に届き、耳が聞こえる限り、完全な無視はできないものだった。LINEにも既読スルーというのは、やってもいいが、それはそれとして意味を持ち、できれば避けるべきものというニュアンスがある。しかし、MLは、単に返事しないのか、見てないのか、完全に無視しているのか、全くわからない。しかも、LINEとはちがって、ほんのひとこと「了解です」を送るためにメールを使うことは違和感がある。

要するに面倒なコミュケーション手段なのだ。昭和レトロな匂いがプンプンする。

私は管理者なので、存在意味を確認するためにも、「1年にほんの数回(最低1回は)」、まとまって何かを書いたりするが、反応する人は本の一人か二人、あとはROMだ。せめて半分くらいの人が一言でも反応すれば、そうなのか、と了解できるのだが、それもない。お前の文章なんて見たくないんだよと、思っている可能性も憶測したりする。そんなことを考えると、こちらの心が傷つく。SNSの時代に、こんなコミュニケーション手段は、絶望的だ。

一方的になることは覚悟で、念頭の挨拶くらいは送ろうとしていたが、それもしんどくなった。私は管理者だから、なんとかMLの存在意味を確認したいと思うが、それができなくなったので、閉鎖することにした。

このMLの話は、前置きのようなものだ。嚶鳴寮について、このさい書いておこうと思ってブログを開いた。

今年の5月に、嚶鳴寮の私の学年、ひとつ上くらいの学年に絞った同窓会があった。去年から誘われていたが、参加しなかった。主催者から何故参加しないのかと、お叱りの電話ももらったが、結局参加しなかった。去年、幹事の一人の長谷川くんに、参加するかどうか返事をしなくてはならないときに書いたメールをここにコピペしておく。(面倒なので何でもコピペだ)

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長谷川くん、鷲田です

嚶鳴寮の集いの作業、ご苦労様です。

お返事しなければならないのですが、

現状、参加したいという気持ちは乏しく、かといって、当日何か用事があるわけでもありません。

おそらく参加しないと思います。

友達は、昔、大切な青春の時期を共に過ごした者ということで良いという気がします。

それから、半世紀近く、その当時の時間とは比べ物にならないくらい長い時間を

過ごしてきて、その中の数えきれない出来事、数えきれない人との出会い、喜びと苦難と努力、そのつもり積もったものとして今の自分がいます。その中で得たもの、失ったもの、変わってしまったもの、それもまた半端ないほどになっています。それを語り合ってわかりあうなどというのは短い時間ではとてもできません。何かしら、薄っぺらな会話を交わして、理解できずに、誤解のままに、終わるくらいなら、昔のままの自分をイメージしてもらってもらったほうがいいような気がします。

参加する前から、そこでの会話が想像できるような気がします。自分が今一番大切なことを伝えたい、わかってほしい、とは思っても、それは単なる言葉のやり取りではとても無理なのです。お互いに、「頑張って今日まで生きてきたんだね」という共感は得られるかもしれませんが、それは、語り合わずとも分かり合えるものだと思います。

AIに、そんな同窓会に参加すべきかどうかを尋ねてみました。AIは、「自分の原点を確認する意味でも参加した方がいい。また新たな発見、新たな出発の契機になるかもしれないよ」と、いつものように前向きの回答を投げかけてきました。が、そのような前向きな方向を、いつものように私は却下しました。

寮時代の友だちとは、寮という一つの大きな花火にぎゅうぎゅうに詰まっていた火薬の黒い小玉みたいなものです。それはいつか打ち上げられて、大きく飛び散って、それぞれの場所でそれぞれの色で輝くもので、それぞれの人生の輝きを遠くから見ていればいいのだと思います。改めて、何かしら、小玉に戻って会話することは難しいです。

火薬のこだまの時は、お互いの本心の色は完全に見えないでいます。だからこそ一つの場所に入れたのです。しかし、お互いに人生を燃やし輝かしたいま、ある意味、その人間の本質的なものがそこでようやくあらわになっているという面もあると思います。それを今更確かめたいとも思わないのです。

変わってしまった自分から見て、昔の友達のそうした大切な個性が合わないと思うこともあります。今だったら受け入れられないだろうというものもあるかもしれません。そのことに落胆するかもしれない場をあえて求めようという気にもなれません。

ひたすらネガティブなことを言って申し訳ありません。

長谷川くんらの努力に水を刺すようなことを言って申し訳ありません。

適当に言葉を誤魔化すのが嫌なので、思っていることをストレートに書きました。

私のように、変な感情を持つような人間は稀でしょう。健全な精神を持っている皆さんが、このような機会に楽しく充実した時間を過ごすことは素晴らしいことだと思えるし、また、そう受け入れられる皆様を羨ましくも思ったりします。

成功を心から期待しています。

返信は不要です。

鷲田豊明 

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あらためて、読み直してみると、正直な気持ちなのだが、辛辣な書き方をしているとは思う。
MLを閉鎖しようとする気持ちと、ほぼ共鳴している。そこでは、「今を語りあうこと」ができないのだ。

これについては、もっと書きたいことがある。しかし、いまはいまいち書く元気が湧いてこない。

最後に、5月の同窓会の資料とパンフが中村さんから送られてきた。読むことは楽しかった。それについての感想をMLに書いた。誰からも返事はなかった。完全既読スルーだった。MLをやめる気持ちが募ったのはこれのせいかもしれない。そのMLの記事を以下に書いて、いったんこの投稿を終えておこう。
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嚶鳴寮OBのみなさま、鷲田です

中村さんから先月の集いの文集をお送りいただきました。
面倒なことだと思います。参加できなかった私のようなものにもお送りいただき、心から感謝申し上げます。
集いが成功し、みなさまがとても楽しく有意義な時間を過ごせたご様子、伝わってきました。
色々な文章を楽しく読ませていただきました。
消息を全く知らなかった神戸くんの様子がわかったのをはじめ、何人かの、その後を初めて消息を知った方の言葉も聞けて、ありがたかったです。
それぞれの歩みを伝える文章の一片の中に、人生の波濤を乗り越えてきた誇りが伝わってくるように感じました。
松林さんが「感想集」と「私の半世紀」の中で繰り返し書いている「嚶鳴寮的考え方」とはなんだろうと、考え込みました。
そこまで実践的にこだわって生きてきた、松林さんの中に最も昇華された形で答えは存在しているものだろうとは思いました。ただ、その答えは私にわかるようには書いてなかったようなので、自分で考えるしかありません。
それはまた、私の中にも、私の結晶構造をもって存在しているものかもしれない、と思い至りました。
私なりの「嚶鳴寮的考え方」の形を思惟すると「人と人とは、状況が許せば、外面的なものをすべて振りほどいて、ただの裸体の人間のようにつながることができる」という根源的確信のようなものではなかろうか、というところに行き着きました。もちろん、これは私の勝手な思いでしかありません。しかし、すくなくとも、自分の人生はそういう不遜な自信を常に背景に持ちながら生きてきたことは間違いありません。もしそれが、「嚶鳴寮的考え方」をとらえているとするならば、その志向は、私の人生にほぼ決定的な役割を果たしたような気がします。もしそれがなかったならば、自分は何事もなし得なかったかもしれないという気がします。もちろんそれが全てではありませんが。
人生は「誰と繋がったか」で、形が決まっていきます。振り返れば、多彩なつながりが、自分の人生に深い彩りを与えてくれたことは間違いありません。その繋がりを作るときに、どんな身分や地位を持っている人間とでも、結局はその人間が人である限り、言葉を創れば、自分なりの繋がり方ができるという自信、だから、必要な人間関係をいつも追うことができたと思っています。いまでも、セカンドハウスの近隣の人々とのつながりを、面白がっている自分は、そんなものに支えられているのかもしれないと思ったりします。ただ、つながるというの、不要なつながりをも求めるということではありませんが。
この文章を読んだ妻が「私と繋がったことが決定的に大事だったとは書かないのね」と言いました。たしかにそれは否定できません(笑)
松林さんの「嚶鳴寮的考え方」とこんな私の勝手な解釈は全然違うものかもしれませんが、改めて考える機会を与えてもらったと思い、感謝しています。
植野さんの思い出のなかにある、燃えた布団を寮の階段に放り出したというのは、わたしの布団のことだと思います。酩酊していて、ストーブの日が移った燃えた布団を被って死にかけた思い出です。交通事故でも死にかけましたが、としとってからも何度も死にかけているので、そろそろ年貢の収めどきかもしれません(笑)

感謝の言葉を書くだけのつもりでしたが、いつものようにダラダラと長くなってしまいました。これで失礼します。みなさま、元気でお過ごしください。

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鷲田豊明

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7月末で、メーリングリストは閉じた。閉じると、その痕跡はシステムにはなくなってしまう。誰が参加していたかもわからなくなる。


2026年1月19日月曜日

2025年の収支

 妻に、家計簿をもとに、去年一年の家計の収支を計算してもらった。年金生活を始めて五年になる。だいぶ慣れてきた。

千葉にセカンドハウスはあるが、そちらは単なる別荘ではなく、プリズムというアロハシャツと藍染の店になっているので、別会計になっている。そちらは、維持費をまかなうのが主な目的で、賃金払いがない。だから、今のところ、赤字にはなっていない。

家計簿からくる収支はほぼトントン。少し赤字という感じだ。赤字は許容範囲だった。もっと赤字になっているかと思ったが、意外とバランスしている。わたしは経常的な収支を管理していない。妻が管理しているのだが、それも、月々、日々、計算しているかのように管理しているわけではない。しかし、彼女がいくら入ってきているから、これくらい大丈夫だという判断でやっている。それは、感覚的なものだろう。その感覚が大きくずれていないということの証だと思った。

年金生活というのは、節約が基本だ。いちばんの節約法は何かと考えると、それは健康だ。老いるとは病気を抱え込むことだと言えなくもない。しかし、抱え込む病気は少ない方がいい。老いた体に、細かい目配りをすることが大事なのはもちろんだ。食事と体を動かすことは大事だ。それはやっているつもりだ。それを上回り、わたしが大事だと思っているのはストレスを抱え込まないこと。まず、家族を大事にして、その上で、面倒な他者との関わりを極力減らすこと、自分と向き合い、自分を楽しませることを心がけている。

置いたら篭らずに、積極的に他者と関わることを進める人がいるが、それは万人に当てはまるものではない。少なくとも、わたしの父親は、徹底的に他者との交際を避けて96まで生きてきた。ある意味尊敬している。わたしもそれがいいと思った。人間にいちばんストレスをもたらすものの一つが他者だと思う。友達との関わり方も、消極的だ。学生時代の同窓会が開かれるということだが、丁重にお断りした。

変な話だが、他者より、自分と関わっていた方が面白い。自分がやりたいこと、やれること、面白がること、それにしっかり関わっていこうと思う。最近はAIがあって、いろいろ勉強するときに完璧なアドバイザーになってくれる。費用もかからない。AIと話す限り、ストレスにはならない。

ここらで辞めておこう。話の筋から外れてきた。

一矢報いる

「一矢報いる」という言葉が好きだ。

大学教員になった頃の話だ。経済学に失望した時があった。結局その学問は、社会を豊かにすることを目指しているだけのことではないか、と思ったのだ。経営学は企業という単位で、企業の内側から社会を見るが、経済学の視座は初めから社会に置かれている。社会を豊かにするという学問的な目的が間違っているわけではない。しかし、ここまで豊かになった社会をさらにまた豊かにするための努力というのは、何も、自分がやらなくてはならないものではないと思ったのだ。経済学を志した時の、問題意識のようなものには、一応の決着をつけていた。そういう意味でも未練はなかった。大学教員を辞めようと思った。辞めることには妻の了解もとった。三十歳前半の頃だった。が、経済学にグッドバイする前に、一矢報いたと思った。その時浮かんだテーマが環境だった。経済学にとって最大の弱点、経済学のアキレス腱が環境だと思った。環境と経済学の問題に取り組むと、意外と手こずり、やるべきこと、面白いことがたくさんあって、そこに決着をつけるのに、十年以上の月日が必要だった。結局一旦大学を辞めたのは、46歳になった頃だ。

そういうこともあり、一矢報いるの精神は大事だと思うようになった。

 人生は「一矢報いる」程度で十分だと思う。その意味は、一般に言われるような、大勢は敗北だけれども何か一つ小さなことでもでも相手に打撃を与えられればそれでいいというものではない。そもそも人生に敵はいない。強いて言えば、敵は自分だ。一矢報いるとは、こと人生に限れば、その一矢で、全体の形成を変えるくらいのものになりうる。たとえ社会的には、どこにもそんな意味はなかったとして、自分にとっての一矢が大事なのだと思う。

2026年1月17日土曜日

70歳という節目から71歳へ

 70歳になってから八ヶ月が過ぎた。(以下は、2025年の8月に書いて放置したもの)

おそらく、本格的な老いが始まった年だ。どう生きていこうとしているのか。一つは、東京で暮らさず、千葉の太平洋側にある古びたセカンドハウスで暮らすという選択をしている。もう一つは、漫然と日々を過ごさず、順序づけられた目的を持った生活をするという選択。もう一つは、不要な人間関係をバッサリと切って、人間関係からくるストレスを遠ざけ、一番大切な人間関係である妻との関係は最も大切にするという選択。そして、健康に留意し、食事、運動などの実行をするという選択。

さらに月日は過ぎて、71歳まで二週間足らずになってしまった。
去年は、田んぼを諦めた。理由は、このまま腰を使って稲刈り、田植えとかやっていけば、取り返しのつかない肉体的劣化が進行してしまうという危機感からだ。
 11月のあたりからは、寒さに耐えきれず、東京にほぼ戻ってきてしまった。
 東京に戻って、体重が数キロ増えてしまった。これを戻すのに真剣になっている。次回の健診日までに80キロ台前半まで戻さなければ、一日100g程度落としたいと思う。あまり急激に落とすと、肉体的に負担がかかる。それは避ける。


量子力学を学ぶ意味

 寒くて、千葉に入れないので、東京に引き上げてきている。

東京では、作業は全くできないので、机の前でパソコンに向かい、一度は外に散歩に出るという毎日だ。

11月ごろから東京に戻る日が多くなり、年末まではpybulletという物理的な関係をシミュレートできるpython のモジュールで、千葉で作っているドローンのデジタルツインを作って仮想的に離陸させたり飛行させたりしていた。それにニューラルネットを組み込んだシステムもなんとか起動させることができた。やればキリがないが、年末までに終わらせた。

今までpythonを避けていたが、AIに散々コードを書かせ、自分で動かしていたから、否応なくpython の理解が深まった。Numpyという演算モジュール、pytorchというニューラルネットワークモジュール、そして先のpybulletというモジュールなど、各種モジュールにも理解が深まった。さらに、ドローンの、剛体としての運動にも理解が進んで、暖かくなって千葉に行けるようになった時に、またドローンに取り組もうという気持ちが湧いてきた。

年が明けても、寒さは変わらないので引き続き家にいる。そこで、昔から気になっていた量子力学のシュレディンガー方程式に挑戦してみる気になった。AIに簡単なシュレディンガー方程式を説いてみてくれと頼むと、無限イドポテンシャルの中の粒子の波動方程式を解いてくれた。それがある程度理解できたので、量子力学そのものを勉強してみようという気になった。

粒子性と波動性や、エンタングルメンといった深いかいな現象も、ある程度、その不可思議さを理解できたようだ。中身は、まだまだ勉強したいと思っている。

特に、フォンノイマンの「量子力学の数学的基礎」という古本を買ったので、これにじっくり取り組みたいと思っている。フォンノイマンの定式化した経済の線形モデルには、随分お世話になった。何本も論文を書かせてもらった。そのフォンノイマンが、量子力学の数学的議論をしているのだから、とても惹かれる。

今更、量子力学をなぜ学ぶのか。そこに、新たにこれで仕事をしようなどという特別な意味はない。ただ知りたいのだ。これはある意味、スマホでゲームをやることと似ている。あるいは、テレビで何かドキュメンタリーを見るのと似ている。そのゲームをやったから、あるいはそのドキュメンタリーを見たから、何か次に繋げようということではない。ただ面白いからやっている、見ているというだけなのだ。意味を考えても仕方がない。

つまり、量子力学を学ぶことは、ゲームをやったりテレビを見たりすることと同じくらい面白いのだ。面白いから学ぶ、意味などどうでもいい。

2025年11月24日月曜日

旧愛知県立図書館の思い出

 旧愛知県立図書館の情報を探していても、具体的なものはほとんどないため、やや悲しくなって、ここに書いておこうと思い立った。
おそらく私が県立図書館に足繁く通ったのは1981年から83年ぐらいまでだったと思う。その頃私は、新栄にある事務所に通勤していた。結婚し子供もいた。26歳頃だっただろう。私は、大学は工学部電気工学科を卒業した人間だが、思想遍歴の中でマルクス経済学に傾倒した。資本論や剰余価値学説史、さらにはさらには資本論草稿集まで読み漁っていた。経済学は良かったがその周りにまとわりついている史的唯物論は、思想としては許容し理解してはいても、厄介だった。その思想が力になるのは、よほど限られた人しかいないと思えた。それを議論する学者の思弁的な冗長な議論に辟易していたのだと思う。純粋に経済学を勉強したかった。マルクス経済学を学ぶうちに、それを数学的に議論する研究者がいることを知った。神戸大学の置塩信雄教授だった。その人の考え方を追ううちに、片足がマルクス経済学から離れ、離れた片足が近代経済学にハマっていった。
その頃から愛知県図書館に通うようになった。今どきの図書館から見ると、古色蒼然とした場所だった気がする。元々、図書館のために建てられたものではなかったのではないか。入り口に長い横長の階段があった気がするが、記憶違いのようだ。主に2階に上がって、本を見ていた記憶がある。
置塩の本をそこで読んだ。お金はないので、なるべく本を書い出費を減らしたかった。図書館に置かれていた、産業連関表という分厚い統計データの本にも出会った。大学では情報工学の講座にいたこともあり、これをコンピュータで分析すれば、いろんなことがわかるはずだとも思った。
置塩信雄のもとで勉強することに憧れた。職場の先輩が、もし経済学を勉強したいなら、社会の底辺に落ちる覚悟をしてやりなさい、そこから這い上がり浮き上がる気合いでやりなさいというようなことを言われた記憶が残っている。仕事を辞めて、大学院に行くことを決めた。1982年の正月頃だったと思う。家族を抱えながらだったが、収入は妻に依存して、ひたすら神戸大学の経済学の大学院に行くことを目指した。何しろ、工学部出身だった。工学部出身でも入れるかどうかを確かめるところから始めた。
それからは、毎日妻の作ってくれた弁当を持って愛知県立図書館に行って勉強した。
図書館で、昼ごはんを食べた。図書館には地下があった。今ではなぜそこまでするのかと思うが、地下には、そこでご飯を食べる人のために、いくつかの大きなやかんにお茶が用意されていた。今思うと、涙が出るほど素敵なサービスだと思う。仕事も辞め、たいした収入ではなかったが、その収入も諦めて、ただ、叶うかどうかわからない経済学の大学院に行く夢を追っている自分は、常に何か惨めな存在だと思っていた。街から弾かれて生きている感じが強くしていたものだ。そんな人間を暖かく受け入れてくれている感じがしたものだった。オアシスだった。
もちろん、私だけがそこを利用しているのではない。地下のその部屋は、結構広かったと思う。別に満員になるわけではなく、まばらに人がいるだけだった。その中には、毎日会う人もいる。別に話しかけるわけではなかったが、今でも頭にその雰囲気が残っている人もいる。その人は、二階で会う時は、いつも電卓を叩いていた、税理士か会計士の試験を受けるためだろう。その電卓を叩く速さに驚嘆した記憶がある。きっとあの人は大成しているだろうともう。生きている気迫が電卓を打つときも、弁当を食べる雰囲気にも現れていた。
半年以上、図書館に通い続けた。なんとか神戸大学大学院経済学研究科の理論経済学の専攻で合格できた。憧れていた置塩信雄のゼミに参加することができた。最高に幸せな時代だった。
常に自分は、ゼロだったと思っていた時代、学問への出会いをサポートし、その時代の「居場所」を提供してくれたのが、旧愛知県立図書館だった。その愛知県立図書館がなくなってしまったことを知って、どれほど寂しかっただろう。
誰か、文集をつくろうとでも言ってくれないだろうか。

業偏屈とは

 最近AIと対話していて、自分は業偏屈なんだと思った。 「業偏屈?なにそれ」と、大概の方は思うだろう。これは私が作った言葉だから、日本語にはない。疑問を持つのは当然だ。 もともとAIとの対話の出発点は、イーグルスの「Desperado」という歌の歌詞をどう解釈するかだった。Des...