2021年9月16日木曜日

後20年生きるとしたら

 確かに、20年も生きられない可能性は十分に高い。しかし、時間がどれほど残されているか、それを想定しながら人生を考えるのは必要だ。そして、もし、2。3年の残された時間を想定すれば、小さなターゲットに日々を使うことになり、何かしらそこには物足りなさが生まれざるを得ない。だから、その日々がある可能性が低くても20年くらいの想定は必要だと思えるのだ。

もちろん、その長さでは、努力半ばで終わる可能性も高い。しかしそれはそれで良いような気がする。

2021年6月1日火曜日

ドローン革命

 あと数十年すると、足のついたロボットは時代遅れになるだろう。なくなることはないかもしれないが。

基本的にドローン型ロボットになって、高度な自動制御で、人や荷物を運ぶのは当然で、それ以外に、例えば、テレビ局で番組撮影するカメラは全てドローンになるとか。人の見守り、秘書的サポート、農作物の育成、漁業に林業、さらには災害救助、災害予防、などなど、世の中ドローン型ロボットで埋め尽くされる気がする。

結局、今のロボットは、足やタイヤで移動するという束縛の大きさの中で、その重みで、沈んでいってしまう。未来の人間から見れば、足つきロボットはセピア色の光景になる。

ドローンも、今は、なんだか外で動画を撮影するとか、外での業務にばかり人は目を向けているが、それよりも、高度なAI機能を搭載したドローンが室内で何をやれるのかを考えた人間が、時代を先取りできるだろう。

自動運転の自動車は、確かに未来を象徴するが、それよりもドローンの時代が先に進んでいってしまう可能性もある。

今のワクチンのように、規制が強くて結局世界から取り残されるという、馬鹿な国にはならないで欲しいものだ。ドローン革命が必要だ。

2021年5月27日木曜日

自己のミクロ的識別

 新型コロナウィルスと人間の闘いは、ミクロな世界における、物質的な自己と非自己の闘いである。体内に入ったウィルスは、本来、非自己と排除されなければならない。人間は、物理的に自己と非自己を識別する能力を免疫システムという形で保有している。自己と非自己の識別が適切に機能しなくなると、ウィルスの感染と発症が起こる。

2021年5月19日水曜日

正法眼蔵と正法眼蔵随聞記


 二つの本は、ともに講談社文庫のものを利用している。

昔学生の頃、このどちらかを持っていた。が、結局読まなかった。多分その頃読んでも引っかかるものは何もなかったからだと思う。難しそうだなで終わっていた。

しかし、今読むと引っ掛かりがたくさん出てきる。確かにどちらも、修行する僧のために書かれていると言ってもいい。とくに、随聞記の方は、そのようになっている。正法眼蔵の方は、道元自身が書いたので、法理に関わるものが多い。もちろん、修行の進め方に関するものはしっかり含まれている。なにしろ大小便の仕方、洗面の仕方がそれぞれ1巻全部に延々と書かれているところもあるのだから。

しかし、禅宗が、なにおおいても座禅が軸になっているので、法理の構造がわかりやすい面があるような気はする。

私の場合は、修行するような体も残っていないので、今更座禅をしてという気持ちにはならない。ただし、道元さんは、思った時に修行を始めなさいと強調しているが。

それと、講談社文庫の正法眼蔵は全部で7、8巻あった。そのうちのまず1巻を読んだ。いつもなら、この歳になると大人買いをする。全巻揃えて読み始めるのだが、今回はそうしなかった。なぜなら、この間、それで何度も失敗したからである。全巻揃えて、結局1巻も読み切らずに、読む気をなくすことが続いたから、まず、1巻からにしたのだ。一応最後まで目を通したので、昨日2巻を発注した。今日中に届くが、それまでの空いた時間で、気になったところをこのブログにあげておいた。まだまだ時間があるので、「有時の巻」について、今から動画を作ろうと思っている。10分で話切れるように、まとめなければならないが、適当にやる。

道元『正法眼蔵』、有時の巻、私にとっての有時(ある時)

 この間を読むと、道元が物理学的世界観を持っていたように思えてくる。

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」

時というものが存在していて、その時でみれば全ての現象は時によって存在しているとうことである。世界は時間という次元を持っていて、ある時間でその世界を切れば、世界の全てがその時間の中に存在していると私は解釈した。

「有草有象ともに時なり、時時の時に尽有尽界あるなり」

草など存在している物も、それらの現象もすべてときであり、その時々に全ての世界が存在しているというわけである。

もし、世界を、あるいは宇宙を4次元の中に存在している実態と観ずることができれば、難しい記述ではない。が、私たちは有るときの世界しか見ることができない。すなわち、4次元の世界をある時間で切り取った世界を見ることができるだけで有る。4次元を観じることは困難なのである。

「いはゆる、山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし、われすでにあり、時さるべからず」

つまり、4次元で見ていると、ある時に、山に登っている自分、川を登っている自分は、時が過ぎて消えてしまったわけではなく、その時の自分として確かに存在しているということである。

「時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今がある、これ有時なり」

時というのが過ぎゆくものであろうがなかろうが、ある時に山を登っていた自分にとって、そのある時は今なのだ、というわけである。過去の時は過ぎ去ったものではない、現に存在しているという、4次元的世界観が確固たるものとして語られている。

「要をとりていはく、尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。」

その4次元的ある時は、「私の有時」だというわけである。(訳の増谷氏によると「主体的時間」)。普遍的ある時ではなく、個性的なある時なので有る。ちょっと離れてしまうが、相対論的に同時性というのが難しいという話をふと思い出してしまう。

現に山に登っていた私、河を渡っていた私にとって、その時はある時なのである。そうなると、世界は時のほかに、さらにもう一次元持っていることになる。つまり、誰にとっての「ある時」なのかという次元で有る。5次元の世界なのである。

「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば、山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。」

山や海も永遠普遍のものとしてそこに存在しているわけではない。変わらないかのようでありながら、永遠の存在ではないのだ。やはり時の中に存在していて、時がくれば山も失われ、海も失われる。さらに、時がなくなれば山や海も壊れてしまう。時間という次元が指定されないところで、山や海は存在を確保できないと、私は解釈した。

これらの規定を、道元は悟りへの道の問題として語っているように思えるが、私は死生観として捉えておきたい。人はある時において確かに存在している。その事実は、人が経年的時間の変化の中で死んでしまったとしても、ある時にその人は確かに生きているのである。われわれの視野の狭い、今という限られた時間に拘束された存在だから、死が消滅のように見えるだけである。人は死してもなおこの4次元的世界の中で存在している。私たちには確かなものとして観想、あるいは体験できないだけである。それは物理的事実、宇宙的事実なのである。


道元『正法眼蔵』、現成公案の巻、「なる」ということ

「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとはおもはず、春の夏となるとはいわぬなり」

「くらゐなり」とは「ありよう」と訳されている(以下訳は全て講談社文庫のものに依存している)。頭の死と生に関しての言葉は、後半の冬と春の例えから類推できる。冬が春になったとは誰も思わない。それはうつろう現象の違いに過ぎない。より本質的なものが冬と春との共通なものとして存在し、それが時間的に移ろっているだけだと誰もが思う。それは季節という言葉で簡略に表現できるが、そう単純なものではない。

生と死も同じものだと道元は言う。生が死に変わったのではない。死は死であり生は生である。この前の文章で、死と生がそれぞれ閉じたものだと、薪と灰を例にして語られている。死は生には変わらないと。しかし、生と死は、連続的なものであることは誰でも理解できる。ということは、その間に変わらぬ何かが存在しているのである。

私が大事であると思えることは、生と死の間に、連続的な本質が存在するとするならば、死とは無ではないということである。そこには、生と共通の何かが存在しているのである。私たちが死というものの中には、客観的な実在があるのだ。その生と死を貫く実在こそ、私たちが注目すべきことなのである。 

道元『正法眼蔵』、現成公案の巻、自己と他己

「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落しむるなり」

道元の思想の中でも最も大事な言葉の一つだろう。

私は特に「他己の心身をして脱落しむる」という言葉が気になる。自己以外のものとしての他者の中にある自分をも脱落させるということだ。自己へのこだわり、あるいは自我、自意識を脱落するというのは、それだけでも極めて困難なことだと思うが、なんとなくイメージはできる。確かに、それが悟りになっていくかもしれないとは思う。しかし、他者の中にある自己を捨てるというのは、たとえ自己が死んだとしてもできそうにない。

他者にとってもなんら存在感のない自己になるということだろうか。その他者が社会であれば、おそらく不可能だ。その他者は世界でもあり、さらに極端なところを見れば、宇宙でもある。そこから自らが存在しないかのように消し去ることなどできそうにない。そのできそうもないことをあえてすることが悟りということだろうか。

そうなると、私流に解釈して仕舞えば、自己を理解するというのは、そのままの自己だけでは理解できず、人間の存在は、自己と他己の二重化したものであり、道元のいう悟りとは二重化した存在としての人間を脱落させることだ。しかし、私にとってはそのような脱落というのはなんら人間理解の上で大切なことではなく、自己と他己の二重化した存在が、生まれ出ること、生によって二重化が洗練されていくこと、そしてまた、死によって完成させられるという事実が大事なことなのだ。

後20年生きるとしたら

 確かに、20年も生きられない可能性は十分に高い。しかし、時間がどれほど残されているか、それを想定しながら人生を考えるのは必要だ。そして、もし、2。3年の残された時間を想定すれば、小さなターゲットに日々を使うことになり、何かしらそこには物足りなさが生まれざるを得ない。だから、その...