2025年3月2日日曜日

死とともに生きる

 59歳の時に、心筋梗塞になり死がすぐそこまで来た。死神に肩を抱かれた感じだ。かろうじて生き残ったが、それからいつも死神は自分の隣を歩いている。

あの時からしばらくは、日常のすべての出来事、ありふれた生活の一コマも含めて「自分はこのことを体験するために生き残ったのだろうか?」と考えることが多くなった。いやそれは違うだろう。単にこんなつまらないテレビ番組を見るために、つまらない人との会話をするために、などなど。しかし、日常はそういうことで埋め尽くされそうになるくらいのものであることがわかってきた。

退職前に一時的に半身まひになる脳梗塞にも見舞われた。心筋梗塞の時と同じように、その病の峠を越えれば、何か依然と同じような体に戻っているという、奇跡は重なった。ただ、薬が少し増えたりはした。

仕事が終わると、今までにない生き方をしたくなった。いつ死んでもそれを受け入れられるような生き方にしたいと思うようになった。そして、徹底的に自分が何者であるかを探りつくして死んでいきたいと思うようになった。

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誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。