関係の人格化

 マルクスの資本論第1巻の序文を少し引用しておこう。

「 資本家や土地所有者の姿を私は決してバラ色の光の中に描いてはいない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手である限りのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にも増して、個人を諸関係に責任のあるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」

また、大月版資本論の第1巻200ページなどに「資本家として、または人格化され石と意識とを与えられた資本として」 と書いている。

いたるところに記述はあるが、今パッと目についた、第3巻、最後の方の文章も引用しておこう。

「この生産様式のそのものの主要な当事者である資本家と賃労働者とは、そのものとしてはただ資本と賃労働との肉体化であり人格化であるに過ぎない。すなわち、社会的生産過程が個々人に押印する一定の社会的性格であり、この特定の社会的生産関係の産物である」(第3巻、1124ページ)

この関係の人格化というロジックは、資本論の全巻で繰り返し主張される。 これは、マルクスにとって経済学的理論を記述するための概念という様相を持っていることはわかる。ただ、それは我々が、現実の資本家などをみる場合にも有用である。

マルクスにとって資本家が資本の人格化であるとするならば、資本は自己増殖する価値であり、価値がまた諸関係の抽象的現象であり、また、商品や貨幣や労働力の所有者としての、消費者としても労働者としても、人もまた諸関係の人格化である。

したがって、我々が経済の中に現れる例えば特定の個人、トヨタや楽天やソフトバンクのリーダーもまた、一人の個人であると同時に、関係の人格刺された実態という側面を持っていると考えることができる。そうした人の持つ関係的実態の側面はシンボル、ないしは記号と呼んでも良いはずだ。つまり、一箱の社会の中で、社会的諸関係の実態としての、記号的側面を持っているのである。

ある人が豊かになる貧しくなるのも社会の帰結である。したがって、貧しくなった人たちに必要な生活手段を与えることも社会の責任である。

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