社会と構造、そして記号

 社会とは、私達の外に存在し、多数の他者が相互に関係しあっている現象である。その一番安易な認識は、私達の間隔において形成することができる。視覚的に、現実として見る他者の動きであり、あるいは、テレビやインターネット喉を媒介にして捉えることのできる他者の動き、また、相互関係である。もちろん、他者革見たら、私たち自身がまた他者である。

 この社会は、単なる人と人との関係性の集合であるばかりではなく、構造を持っている。構造とは、人と人との関係における規則性であり、あるいは時間的な恒常性を持った関係性である。一番身近な構造は家族であり、また、一番広域的な複雑な関係は世界である。

私たちは、この社会が持っている多種多様、複雑な恒常性に身を寄せながら生きるしかない。社会の構造が単純であればあるほど、依存すべき構造は小さくなるが、現代はこの構造が巨大化し複雑化してしまっているので、構造との関わり合いも高度なものがも求められるようになっている。

私たちがこの構造に身を寄せないといけないのは、何よりも私たちが日々、衣食住などの生活の糧を 得なければならないからである。それらの糧を得なければ私たちは生きていくことができない。そういう意味で、構造との関わり方は切実である。

人は、身近な構造を相対化して、その必要性を自覚したときから、人としての自立への模索が始まる。 

若い頃は、構造は、ある意味憧れの対象になり、また、反発の対象でもあり得る。構造から生きる糧を得るためには、反発しているだけではどうしようもない。構造と妥協し、構造に自らも貢献し、適合させ、そして必要なものを得なければならないのである。家族に対してもそうだが、心身健康であれば、若い頃にアルバイトでもして、構造に役立つことができる自分に気づくかもしれない。

構造に自らを適合させていけば、かなり核心的なところで自分を変化させることになるだろう。それは、あるいみ、社会によって、そこにある構造によって自らが変えられてしまうことになる。厳密に言えば、若い頃は、変わっていくのだが、変わる前の自分がなんであるかがわからない場合も多いので、求めた変化なのか、求めざる変化なのかすらわからなくなることもあるだろう。

自らを変えた社会の構造ではあるが、その社会の構造を作っているのも人であり、自らがぞの構造を担う人間になることは、構造を僅かなりとも変化させる、あるいは人を変える人間になることでもある。人は、社会によって作られるものでもあり、社会を作るものでもあることに、人はいつか気付かされるのである。

構造に関われば関わるほど、構造が存在していることに、疑問を抱かなくなる。

家族がなぜそのように存在するかについて、人はあまり疑問を抱かないだろうが、そこにもまたはっすべき問はいくらでもあるのだ。なぜ家族はそのようなものであるのかと。学校という存在もまた、無数の疑問の対象となるべきものだが、そうあるべきものとして若者たちには対峙することになる。

学校を卒業すれば、お金を稼ぐべく職業につく。社会人という言葉があるように、それは、より深く社会の構造の中に組み込まれていくことを 意味しているのだ。更にそこには深い問が多数生まれるべきだが、何よりもまず人は、社会の構造を受け入れていくことになる。

疑問もなく受け入れること、あるいは受け入れざるを得ないことは、この社会が当たり前のものとして人の周りに存在しているということである。また、それを一人では帰ることができないという事実に気づくことによって、さらに構造への問は消える運命にならざるを得ない。

社会が、すべての人にとって同じように都合の良い構造を提供するわけではない。構造は人を区別する。また、結果として差別する。区別や差別が意図的なものかどうかは、少なくともそれが構造である限り、意図的なものではなく、偶然である可能性が高い。なぜなら、社会はそれ自体人ではないので、人が持っている意図は持っていないからである。もちろん、擬似的な意味での意図は持っている。その疑似的な意図こそ大きな問題なのであるが。

社会が独裁者に支配されていれば、社会の意図は独裁者の意図である。しかし、たとえその独裁者が一個の人間であることは事実としても、彼が代表としてもつ意図は、社会の意図であり、その意図を持つ個人である独裁者は、一個の極端な記号に過ぎない。

これは社会全体についても、あるいは、この社会をモザイク状に覆っているいずれの構造についても言えることである。人は自分自身を代表しなくなって、構造や社会を代表する存在として現れた途端、一つの記号になる。

構造があるところには、その構造を代表する個人がいて、それは一種の記号である。一番わかり易いところでは、日本には内閣総理大臣というのが、国家の政務を取り仕切っていている。彼のことを独裁者と呼ぶことはあまりない。議院内閣制で、国会議員は民主的と言われる選挙で選ばれているからである。しかし、記号的存在としての代表であり、その点では独裁者とあまり変わらない。

話をもとに戻して、人が寄り添う様々な構造は、人が作ったものと言えなくわないが、基本的に、構成するすべての人から独立しているものである。小さい構造では、その独立性は見えにくいが、確実に存在し、大きな構造ではそれはよりわかりやすいものになるだろう。

そしてこの構造は寄り添ってくるものを意図的ではなく結果的に差別し、差別された人間はこの構造から得られるもののレベルが低下する。つまり、より多くの恩恵を得るものとそれが少ないものが現れるのである。

これは今の自由な社会だからそうなるかといえば、必ずしもそうではない。自由を犠牲にして、社会の公平性を意図的に実現しようとしても、区別や差別がなくなることはない。構造化することの中に、ひとりひとりの人間の公平性を実現することが困難になるのである。

構造は、ある人がその構造からより多くの恩恵を受け、他の人はそうでもないというような不公平な結果を生み出すことをなんとか合理化しようとする。たとえば、能力の違いが利益の違いを生み出すのだとか。そうすると、恩恵の小ささは、小さい人の能力が劣っているからだということになり、構造の責任が問われなくなる。しかしそれは嘘である。

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