社会と個人

人間は社会的動物であるとはよく聞くフレーズである。確かに、動物の中には生殖活動以外は、ほぼ単独で生きている動物もいるので、その対比から出てきている言葉だろう。蟻や蜂なども階層のある社会を形成して群集の存続と拡大を図っている動物のように見える。人間にとっての社会は、複雑なことは間違いないが、人々は身近にそれを感じるので、あえて社会とは何かなどという問いを発しなければならない状況はあまりない。社会とは何かをさほど知らなくても、あるいは考えなくても、生きるのに不自由はないのである。もちろん、人間の社会にはルールや慣習があり、それをある程度守ることは条件だが、人間の社会は単に肉体的に育てるだけではなく、教育というプロセスがあり、その中で誰もが必要最小限のルールや慣習を身につけることができるようになっている。

古典的経済学が示したように、人間の社会は分業が発達し、身近なものが地球規模での距離を持った場所での生産に条件づけられていることもしばしばである。われわれの生活必需品そのものが、個人の領域を離れ、広大な社会的空間の中で生産されているのである。人間が社会を必要としているのは、それほど身近なところで確認することができる。あるいは、メディアが発達し、テレビであろうがインターネット経由であろうが、世界の出来事をテレビ、スマホやパソコンで確認することができて、世界的規模での人とのつながりを実感することが可能である。

社会とは何かという問いをあえて発したとして、まずあるべき問いは、なぜこの社会はある程度の秩序を維持できるのだろうかではないだろうか。秩序とは何かということが問題になるが、それは、人間が共通に確認できるあるべき状況の図式の中に、対象が、したがって現実が収まっていることを指すのだが、具体的に言えば、規定されているルールや社会的規範、慣習に沿って人々が行動していることだろう。それはまた、法律や行政制度によって規定されていて、それに反する行為が国家の権力によって罰せられることになっている。国家がなぜこのような力を持っているのかは、それを持たせようという人々の了解があるのであり、それはまた、人々が持っている力の一部を国家に譲り渡すことによって国家は権力、それは警察や軍隊などの強力装置を手にすることができているのである。そのような社会が、社会として機能できている理由を知ることはそれほど難解なことではない。中学の教科書に出ている程度のことを学べば分かることである。

しかしそこに出てくる社会というのは、構造化した社会のことである。構造化した社会というのは、より包括的な表現として、システム化した社会といってもいい。したがって、それは、本来人間が自然な状態で生まれる、非構造的な社会というものを隠してしまっている。

システム化した社会のことを社会システムと呼ぶことにしよう。社会と社会システムを区別するのである。社会システムは社会の中に含まれるのであるが、構造を保有する社会のことである。蟻やハチもまた社会を形成しているというよりも、社会システムを形成していると言ってよいのだが、あるいは単独行動を主体にした動物は、あるいみ社会は持っているが社会システムは形成しないと表現したほうが妥当である。あらゆる動物は、プリミディブなものであれ精緻化されたものであれ、社会を形成するのであるが、その一部が構造化した社会、社会システムを形成すると考えたほうが動物集団の認識がより鮮明になるはずだ。

すなわち、社会とは何かという問いは、社会と社会システムの違いは何かを明確にすることによって答えることができる問いになるのである。

社会システムとは何かを考えるときに、まずシステムとは何かを確認する必要がある。システムは全体的目的を持ち、各部分がそれぞれの目的を持ちながら、全体目的によって秩序づけられて存在するものである。ただ、目的という言葉があることによって、意思を持った存在でなければならないように見えてしまうが、ここでいう目的とは、その全体を動かす中心的な動因のことであり、意思あるもの意思なきものを問わず存在しうるものとして考えるべきだ。

たとえば、太陽系も一つのシステムである。そこに意思があるものではなく、太陽を中心に構造化された存在がある。惑星があり衛星があるが、物理的な法則で表現される秩序に基づいて部分は規則化された動きをしている。代用がその動員としての目的性を持っているものではあるが、各惑星もまたそれぞれみづからの目的性としての動因を持っている。そこには極めて原始的なシステムの姿を見ることができる。また、太陽も銀河系の一部を形成していて、より大きなシステムの部分をなしている。その銀河系もまた、より広大な宇宙の中で法則化された動きをしているのである。それらは巨大なシステムであるが、もっと身近に、全ての生命もまた、生命としての持続、首都拡大等を目的因として持ちながら一つのシステムを形成している。時計もまた時間を示すという目的を持つシステムである。コンピュータもスマホも、あえてその目的を記述するまでもなく、全てシステムである。

システムを見る上では、構造としての全体と部分の関係性が本質的な重要性を持っている。システムにおいては、全体から切り離されて部分は存在せず、部分なき全体も存在しない。また、部分が全体化し、全体が部分化する相互転移がそこにはある。このようなシステムのあり方は、この宇宙にあるすべてのものの存在様式であるとも言える。ウパニシャド哲学が、アートマンとブラフマンという、宇宙の根本的存在様式を語っているのも、そのためであると思われる。したがってまた、この部分と全体によって構成されたシステム、全体目的を内在させたシステムという図式は、われわれの認識方法の原点でもある。ただし、科学は、機能的な方法によって、部分から全体を推測し、また演繹的に全体から部分を把握しようとするが、それらはぞれぞれ一面的な認識を与えるだけであり、システムの普遍的な認識に至る手法では必ずしもない。

システムをこのようなものとして捉えることを前提に、再び社会と社会システムの問題に立ち返ろう。

現代が極めて複雑化した社会システムを形成していることは間違いない。あらためて、システム化していることを問うまでもなく様々な全体目的がそこに嵌め込まれていることは明らかである。たとえば、経済的な面を見れば、経済成長という一つの目的がかなり鮮明に嵌め込まれている。それは個々人が、経済的に豊かになるとか、一つ一つの企業がしっかりと利潤を生み出すとかいう、個別目的を含みながらも、それらを超えた全体的な目的性として支配的な経済的動因になっているのである。さらに、経済以外の領域において、たとえば政治的なシステムもまた、この社会に組み込まれている。国家が、やや複雑な形を持っているが、全体目的を持っていることは明らかだろう。その分権化された地方や、階層的な政治権力機構がそれぞれ部分目的を持ち、さらには、個人そのものが一つの政治の単位として機能している。これら経済や政治だけではなく、思想や文化やコミュニケーションの側面でも社会は一つのシステム化した構造を持っているのである。

目の前に存在する人の社会は、社会システムであるが、それは人の社会が全てシステム化してたものであったということではない。人間がシステム化した社会を持つようになったのは、数千年の歴史しか持たず、数百万年の人類の歴史の中では、ごく最近のことと言わざるを得ないのである。

日本の歴史で言えば、一万年近い存在期間を持つ縄文時代は、基本的に採取狩猟社会で、そのほとんどの期間に明確にシステム化した社会を持たなかった。青森の三内丸山遺跡などをみれば、成熟した縄文文化にシステム化した時や場所がないなどとは断言できないが、小規模な家族を単位に成立している縄文社会にシステムがあったとは言えない。家族やその延長線上の部族には、その存続という全体目的が成立していたと考えるべきだが、それは社会としての全体とは言えないものである。日本に社会システムが成立したのは、灌漑水稲農耕が支配的となった弥生時代以降である。その全体を代表する人が現れ、集団はより多くの水稲生産物剰余を手にするために社会は激しく争うようになり、社会の統語化を進め、また社会システムを形成していったのである。

縄文時代に形成された社会システムは、まさに現代にまで継続しているが、この社会システムの根底に、抽象的ではあるが、システム化する前も存在していた平面的な相互関係を持った社会が、抽象的な形ではあるが存在しているのは間違いない。家族や地域共同体などのかたちで、原始的な社会は今でも生き残っている。全体性を持たない分散化した比較的単純な社会と明確な全体性を持ったシステム化した社会が二重化して存在しているとみなすことによって、我々の社会の実像により迫ることができる。

社会をシステムとして見る見方はなぜ必要なのであろうか。もちろんそれはわれわれの社会に対する正しい認識を得るためであるが、またそれは、学校教育の中で刷り込まれた形式的知識の限界を自覚するためであるが、ここでは個人というものの責任の限界を理解するために重要だと強調したいのである。

わたしたちは、自身、十全であると考えている。自分の行動や言葉を自分自身の意思として行為していると思っている。もしそうでないならば、私たちは別な何かの力によって自らの意思でもない行為や言葉を実行しているということになるが、病気でもない限り、普通それは誰でも否定するだろう。確かに人は自らの意思に基づいて自らの言動を律しているのであるが、私たち自身が社会の構成要因として、この社会システムの目的のもとに、意識するかしないかに関わらず行動している側面を必ず持っているのである。私たちの日々の言動は、釈迦関係の中で行われる限り、この社会のルールや慣習を踏まえなければならない。それは社会というよりも、この社会システムが私たちに強制しているものであり、私たちは自らの意思に基づいてそれを受け入れているのであるが、それはただ私たちがこの社会システムに従順であることを意味しているものなのである。

芥川龍之介の小説には、河童の世界を描いたものがあるが、そのなかで河童の分娩では生まれてくる子供に河童の社会に生まれてきたいかどうかを事前に問うというシーンがある。生まれることを拒否することができるのであり、生まれる限りはその社会のルールに従うという了解があることになる。人間は、選択の余地なくそこに生まれてくるものであり、社会規範を受け入れることは了解なく強制されているものである。もしそれがただの社会であるならば、人間として生まれることと社会に属することはほぼ同値的現象なのであるが、社会システムとなると、それは人間によって二次的に作られたものであり、人であるならば受け入れることは当然のこととは言えないはずである。

人間は自己十全なものではなく、また人は自らを作り上げるのではなく、なによりも社会システムによって作られるものである。


高校までの教育は、基本的に国家によって統制されたものである。国民は教育を受ける権利もあるが、それはまた義務でもある。国家にとっては教育を与える義務でもあるが、国家の教育権を行使しているとも間違いなく言える。もちろん、国家が人を教育すること、すなわち社会システムが人を作るものであったとしても、それは望ましくないということではない。この社会システムが維持されている限り必要なことであり、人々は国家による教育を受け入れているのであり、それは国民の教育を受ける権利を、国家が認めているという形を取る。大陸的自由主義の伝統に則って、社会は社会システムを選ぶ権利、それは一つの社会の有する自由として持っている。しかし、個人に社会システムを選択する権利はない。したがって、この社会システムを受け入れざるを得ないのである。


社会システムが人を教育し、実地に訓練し、人間を作るとしても、画一的なロボットのような人間を作るわけではない。人間には個性的な実態があり、それは遺伝的多様性と環境的多様性に支えられている個性である。この多様性は国家の教育によって消せるものではない。人間の多様で構成的人格は、国家、社会して無による人づくりの烙印を色濃く帯びながらも、確実に残っていく。


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