価値とは、対象についての大切さの指数である。
価値という語は日常的に、様々な場面で使われるが、経済活動の中では頻繁に出現する言葉であり、したがって経済学で重要な役割を果たす。
リカード、マルクスらの古典派経済学は、労働価値説を採用した。労働価値説は、商品やサービスの価値が、それに投下された労働量に依存するとしている。その後の近代経済学といわれる、ジュボンズ、ワルラスらは、人々の満足度から価値を導いている。どのような価値を採用するかによって経済学の形式が大きく違っている。
リカードは、経済学を理論的に考えた人だが、マルクスの価値論は労働価値説を極めたような外観を持っている。そのマルクスによれば、価値の源泉が労働であるというのは、単に、その生産に直接投下された労働だけではなく、その生産につらなる一連の経済活動によって投下された労働が、その貢献量によって加わるべきだから、価値とは、それ自体が一つの社会関係であるとみる。つまり、人と人との関係が商品に体化する(embody)ことによって、価値をもつことになる。(体化は、広辞苑にもなく、日本語かどうか不明だが、embodimentと理解していただきたい)
このような社会関係としての価値は、一見、実際に計算できるようである。有限な産業数で、その相互の関係が、いわゆる産業連関表のように定量的に確定していれば、ほとんどの場合、数学的には価値を決定できる。しかし、それは現実の社会関係の極めて高度な抽象化であり、ほぼ、現実を外していると言われても、間違っていると断言できないほどのものである。現実の労働をとうしての社会関係は、定量化が困難亜有機的で複雑な関係を持っているという見方の方が強いリアリティを持っている。
もちろん、ある財の生産に関わる労働の存在感は、現代の経済において著しく低下していることは間違いない。しかし、人間がその生産に関わっている限り、労働は存在するので、労働という生産要素の特別な意味を考えることによって、労働価値は成立すると言われればそれも否定できない。
そこはさしあたっておいて、価値が社会関係であるという点をより掘り下げてみよう。
価値が社会関係であれば、マルクスによって自己増殖する価値として定義された資本もまた社会関係である。資本主義経済における、様々な価値形態は全て社会関係なのである。あるいみ、マルクス経済学においては、労働そのものが社会関係だるといっても良い。(なぜなら、労働そのものも人と生活資材によって再生産されるものだからである。生命の価値について議論した拙稿を参照していただきたい)
しかし、このような社会関係としての価値は、その商品自体ををいくら調べても明らかにならず、抽象化された指標であることは間違いない。
マルクスは労働価値という概念を帰納的に導出している。すなわち、この経済において価値が現れるのは商品同士の交換比率としてであることから出発する。なぜ商品が一定割合で交換されるのか、そこには共通の実態があるからであり、その共通の実態というのは、労働が投下されて生産されたこと、労働生産物に他ならないから、共通の実態とは労働投下量だというわけである。そして、その投下労働料は、生産をめぐる社会全体の技術的関係から決定されるので、価値とは社会関係であるというのである。
しかし、この社会関係が極めて抽象的に、たとえ経済学的には一つのモデルの上で計算可能なものであったとしても、確固とした定量的関係として存在しない点において、抽象化された人間の精神においてのみ存在可能な実態であることは間違いない。
だとするならば、まず、人々の関係性は、交換というところにとどめておくのが妥当であろう。
一方の効用価値説の方は、初めから交換しているというところにとどめておきながら、人々が交換しあっている市場の一般均衡の結果として商品の間の交換比率としての価値が決定されるとみるのであるが、ここの交換から、社会全体での相互交換に進むプロセスで、価格決定メカニズムは、労働価値説と同様に、極めて抽象化された議論へと進んでいってしまっている。あくまで、具体的で人々の日常感覚で捉えられるものは、交換しているというところにとどまるのである。
そうすると古典化経済学の労働価値も、近代経済学の効用価値も、交換から出発してその社会関係のレベルを議論するときは、一挙に抽象化するという点で、似たようなものであると言わざるを得ない。
価値とは、交換を基礎として人と人との関係、社会関係のあり方を表すものだということである。その点では、マルクスらの労働価値説も、近代経済学の効用価値説も同じものなのである。
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