2021年2月27日土曜日

置塩信雄先生の思い出(2003年に書いたもの)

(福村先生のことを書いたが、置塩先生のことを書いたものがあったのを思い出して、古いファイルの中から以下のものを見つけてきた)

 置塩信雄先生が2003年11月8日に亡くなられた。76歳だった。思い出のようなものを書いてみたいと思った。(以下、「先生」の敬称を略させていただきます。申し訳ありません。)

  私は大学も違い、工学部であったので、学生時代には置塩のことはまったく知らなかった。その後、経済学の勉強をするようになって、その名前を知るようになった。置塩信雄のもとで経済学の勉強をしたいと思うようになり、大学院を神戸大学経済学研究科に選んだ。入試に向けて、原論の勉強をするときにどうしたらいいだろうか迷った。私は名古屋大学時代、経済学の単位を取った記憶がない。教養部時代に、市場の安定性についての蜘蛛の巣図を書いた授業を受けた記憶はあるのだが、単位を取った記憶はない。

 大学院入試の、過去の問題を調べると、原論の試験は、「インフレーションについて説明せよ」といった問題が多かった。つまり、きちっとした正解はあるかどうかわからないような問題なのである。そこで、どのような問題が出ても置塩信雄の『蓄積論』の考え方で答えを書くという方針でのぞんだ。その本を何度も読み返し、ノートも作った。結果的に合格したが、その勉強がよかったかどうかは検証しようがない。いずれにしても、そこまで置塩に心酔していたのである。

 私は置塩のゼミを第一志望にしていた。入試の面接で初めて置塩信雄に出会った。1983年の秋のことである。振り返ってみればそのとき置塩は56歳だった。今私が、48であるから、結構近い気がしてしまう。
 面接で置塩が質問した言葉。
 「筆記試験はどうでしたか?」
 「数学を100点とれるようにがんばりました」と私。
 「それで、できましたか?」と置塩。
 「だいぶできたと思いますが100点の自信はありません」と私。
 こんな感じだった。そして、
 「君は大学院で何をやりたいのかね?」
 「計量経済学でモデル分析をしたいです」と私。
 「だったら、君は、斎藤先生のところで勉強しなさい」と置塩。
 というわけで、私は、主ゼミが斎藤光雄先生のところになり。第二ゼミとして置塩ゼミに参加することになった。当時、納得できない面もあった。入試の成績が悪かったのかもしれないとも思ったが、今になってみれば、斎藤先生のところで勉強できたことはとてもよかったと思う。経済の実証分析という点では最高のゼミだった。斎藤光雄先生は、ご存命だが、置塩信雄と共に、私の人生で最高の二人の教師だと今でも思っている。

 私が計量経済学をやりたいと思ったのは、理論と同時に、現実の経済と格闘したいと思っていたからだった。理論的バックグラウンドは、新古典派経済学というよりも、置塩信雄の経済学でよかったのだ。そのあたりを話せばきりがないので、ここでは触れないでおく。

 置塩信雄のゼミナールに参加することは、ある種、あこがれていたアイドルスターと一緒に仕事ができるようになったファンのようなものである。それはすごいことだった。ゼミはとても厳しい雰囲気だった。誰もがピリピリして受けていた。戦前に建てられた兼松記念館の三階だったと思うが、海側に面した研究室に毎週ゼミ生が集まった。両側の高い天井いっぱいに本が詰められている。ソファーに座る学生、私はたいがいその背後のパイプ椅子に座った。
 特に、出口に近いところに座ったような気もする。なぜならば、私は当時二人の子供がいて、妻が看護婦で不規則な勤務をしていたために、子供を保育所に迎えにゆかなければならなかった。だから、ゼミが五時半頃を過ぎると、大学の近くに借りた駐車場の車で、子供を引き取りに行った。もちろん、もう一度ゼミに帰るようなことはできなかった。そのことを、先生にも理解していただいていたと思う。
 ゼミのコンパで、置塩と一緒に過ごすことは楽しかった記憶がある。置塩は、当時から、たぶん体の問題で、それほど飲まなくなっていたような気がするが、ゼミ以上に置塩に近づけることが楽しかった。
 ゼミで議論される内容は高度で、大学院に入学したばかりの学生にとって簡単についていけるものではなかったが、いつかついていきたいというあこがれは常に持っていた。

 修士論文を書かなければならないころになると、置塩のゼミで発表できる。私は結構楽しかった。計量経済学の実証的な研究は斎藤ゼミで発表し、純粋理論的なものは置塩ゼミで発表した。私のモットーは、その先生から一番学べることを学ぶということだった。
 私は多部門モデルをやりたい気持ちもあったが、二人の先生が共通して興味を持ちうるであろうと思われた、投資需要の理論と実証研究を修士論文テーマにした。

 投資理論に関することは、どちらかといえば新古典派的理論が大きかったが、ケインズ理論にも、投資理論は大きな存在感があった。置塩は、ケインズの投資理論について、当時経営学部にいた伊賀先生と共に、徹底的に研究した方だった。ときどき、ゼミの中で、ケインズの投資理論について説明することがあった。その説明を今でも私は覚えている。単に覚えているだけではなく、学生にマクロ経済学を教えるときなど、投資のところに来ると、置塩的な教え方を、じっくりと学生に聞かせる。要するに、なぜ利子率が投資需要に効いてくるのかを、プロジェクトに区切って説明するのである。学生は結構おもしろがって聞く。
 置塩から最初にゼミでその考え方を聞いたときに、それまで関数でこうなるだろう、というような理解にとどまっていた私は、目が開かれたような記憶がある。

 その置塩が、ときどきゼミで、ケインズの「一般理論」に書いてある、ある考え方がわからないというか、苦労しているというか、そんな話しをしていた。それは現在の利子率に比べて将来の利子率が一層下がるという予想をすると、現在の投資が減少する可能性があると、ケインズは書いていたのである。私が投資をやっているからというのではないとは思うが、当時置塩はこれをモデル化するためにいっしょうけんめいになっていた。それはパラドキシカルな結果なのである。新古典派的な理論の枠組みではこの結果は出てこないのだ。
 置塩は自分の考え方をモデル化したものを、何度かゼミで発表していた。どういうわけだか、置塩が書いた論文を原稿段階で私は読んだりもしていた。読めといわれたのだろうと思う。しかし、私には置塩の精密で複雑なモデルは、気分的についていけなかった。

 あるとき、どのようなきっかけかはよく覚えていない。おそらく、第三学舎の自分の机の上で、数学モデルをいじくったり、コンピュータを動かしたりして修士論文の準備をしていたときだろう。ケインズの考え方が意外と簡単なモデルであらわすことができることがわかった。つまり、現在の投資と将来の投資を、新古典派のように粘土ように混じり合ってしまう理論ではなく、個性が失われないような形にすれば、ケインズの言っているのと同じようなことが理論的に表現できることがわかった。
 私は、置塩に時間をとってもらい、説明させたもらった。それはそれだけで終わったのだが、あるゼミの時間に「君の考えを説明しなさい」といきなり言われた。私は何のことだったかわからなかった。あの自分の考え方が、そんなに置塩に印象に残るものだとは思わなかったのである。私は説明した。それからもっと一般化するようにといわれたが、本気にはなれなかった。というよりも、複雑すぎて解けなかったと言った方が正直かもしれない。そのうちに、当時大学院の先輩に当たった萩原さん(現神戸大学教授)と置塩が一緒になってその一般化を完全になされた。自分のやったことが、そこまでの努力に値するとは思わなかったのだ。そのとき、「鷲田・置塩論文として、理論計量経済学会(現、日本経済学会)の学会誌に投稿しなさい」と言われた。

 最初に書いた論文は、採用拒否にあった。その旨を伝えると、置塩は「そうか」というような反応しかしなかったと思う。私も面倒になってそれはしばらく置いておいたが、その後、業績が欲しくなって、欲が出たというか、前の原稿が置塩流の展開になっていたのを、新古典派的な考え方との関連を前面に押し出した書き方に変えて、「先生、この原稿で再度出させてください」とお願いした。もうどうでもよいと思ってい頃なのか、特に点検することもなく了解をもらって投稿して、それは結局「季刊理論経済学(Economic Studies Quarterly)」掲載された。
 論文の中身よりも、置塩信雄との共同論文が学会誌に掲載されたことは、私にとって決定的に大きな勲章だった。自分にとって、自分だけにとって、一番輝かしい勲章だった。

 私は、修士論文を終えて、大学院の後期課程に1年いただけで、就職してしまった。だから、置塩の指導は大学院では3年しか受けなかった。やはり短い。置塩は大学院の5年間、みっちりとつき合う価値が十分すぎるくらいにある教師だった。
 その後の最も大きな関わりは、学位論文をめぐってだった。
 私は、大学に就職すると、自分のやりたいことだけをやればよくなって、頭は爆発的にいろいろなことを考え出した。まず、理論的に興味があった、多部門の最適成長経路に関するターンパイク理論を勉強した。それは、大学院にいる頃から勉強を始めていて、当時、大阪大学社会経済研究所にいた筑井甚吉先生の元で、それを学んだ。毎週のように通った。基本的に個人指導なのである。よく教えていただいたものだと今でも思う。でも苦しかった。分厚い理論と実証が書いてある英語の本を毎週ある程度のページ数自分理解しておかなければなかった。

 当時、神戸大学では、課程博士をとらずに就職してしまったものに対して、論文博士を課程博士と同じ手続きで出すという制度がうまれた。私が大学院にいるときに制度としてできたもので、私はとても歓迎した。学科試験をいくつか受けなければならなかったのだが、大学院時代にドイツ語とか英語、経済統計学などをとっていて、経済政策の試験を受けに、岩手から神戸大学に行ったこともあった。

 学位論文としては、歴史上の体制変化を多部門モデルで表現される剰余の変遷としてとらえるものにしたかった。そして、実際にかなり長大な論文を書いた。たぶん、就職して二年目くらいだったろうと思う。内容的には実証ではなく、完全に置塩的世界の中で書いたもので、 置塩に見てもらうしかなかった。論文を送ったところ、とっても長い返事の手紙をいただいた。(それも、私の宝物なのだが、そのわりには、今、机の周囲を探したらその手紙が見あたらなくて動揺している。)
 そうだ、その論文について話を伺うために、神戸まで行ったことがあった。二人だけで、ビールと酒を飲みながら話したのは、あれ一回だったのではないだろうか。なつかしい。

 手紙と、お会いして受けたコメントは、とてもたいへんなもので、その通り修正することは、私にはとうていできないものだった。ただ、基本的なアイデアは認めてもらったような気がする。あのときの、置塩の気持ちはどうだったのだろうか、と今になって思う。面倒なやつだな、と思っていたかもしれないが、それはいっこうにかまわない。そういう形で、置塩に関われたこと自体が自分の人生にとって大きな蓄積になっている。

 置塩に認められるような研究結果を出したかった。ひたすらそれを目指した。自分の能力いっぱいに努力した。その点で曖昧さはみじんもない。「なかなかいい研究じゃないか」なんて、置塩に思われただけであらゆる努力は報われると思うほどにそれは切実な願いだった。ただ、私のそれは、置塩の経済学をそのまま引き延ばそうとするものではなかった。自分なりに、自分の関心に従って研究した結果を置塩に認められたかった。同じことをやっていては、置塩に本気で認められるとは思えなかった。置塩が考えなかったようなところで結果を出したかった。

 自分の研究結果を置塩に送るようなことはほとんどしなかった。何もしないでも置塩に伝わっていくくらいのプロミネントな結果を出したかった。それができたかどうかはわからない。置塩に自分の何かが伝わったかどうか確かめたこともない。ただ、信じたい。いつか、「鷲田もがんばっているな」なんていう気持ちが置塩のあの偉大な脳細胞に一瞬かすめただけでも十分だ。そうであってくれたらなと思う。
 置塩を乗り越えたいと思ったときもあった。しかし、それは不可能であることがわかった。どんな研究成果を挙げても乗り越えられないもの、それが「師」というものであることがわかったからだ。

 いくつかの偶然も重なって、地回りの大学教師から、母校の経済学部に教師として戻ってくることになった。移って数ヶ月、懐かしさにぼんやりと、うっとりと時間を過ごした。しかし、そこにはもう置塩信雄はいなかった。斎藤光雄先生もいなかった。教授会に出て、この古風な会議室で、置塩は40年もの間会議に出ていたのだと思った。残念ではあったがその方が良かったのかもしれないと思った。職場の同僚として過ごす相手ではなかった。

 置塩のような師を持てたこと、それが私の人生の最大の幸福の一つであることは間違いない。私はこの幸福を堪能し尽くしたか?それは、不十分だった。それでもいい。

 ああ、それで終わりなのだ。静かに、その姿は白濁し、フェイドアウトし、置塩は僕の前方遠ざかっていった。一度お会いして話したいと思い続けたが、かなわなかった。
 置塩に問いたかった。

「僕の生き方は、これでいいのでしょうか?」と。

 置塩はなんと応えるだろう。

 「いいんじゃないですか」

 と、昔の調子で答えるのではないか。ただ、その後にあの渋い微笑みを加えてもらえれば、私はそれ以上に大きな満足はない。

 偉大な教師だった。置塩に出会わなかったら、教師としての私はあり得なかった。
 生きている間に言えなかった、心からの感謝の言葉をいまいいたい。
 「置塩信雄先生、ありがとうございました。あなたに別の世界があるかどうかはわかりませんが、少なくとも、私の心中には、あなたは終生生き続けるでしょう」

 置塩経済学とは何だったかは、いつかきちんと書きたいが、さしあたって、次のことだけを書いておこう。 
 置塩経済学に、今それほど関心が向いていないかもしれないが、いずれ復権するだろう。いや、人間の歴史がある限り、何度も何度も復権するだろう。なぜなら、それは経済システムというものに対する一つの体系的な真理であるから。 

2003年11月30日記す

2021年2月26日金曜日

福村晃夫先生の思い出

 福村晃夫先生は2016年に亡くなられていた。いま、ウェッブで確認して初めて知った。いや、もしかして知っていたのかもしれない。そのあたりの記憶すら曖昧だ。

名古屋大学工学部電気電子工学科にいた頃、私は福村研究室に在籍していた(1975年〜1978年)。

コンピュータに対するあこがれがあったからである。

先生とはほとんど話する機会はなかった。ただ、研究室に配属されたあと、新たに設置されたコンピュータルームに案内していただき、小さな部屋の半分ほどになるミニコンピュータを紹介していただいた。1975年の頃だから、ミニコンピュータといっても、とても大きかったのである。先生が、ディスプレイを指しながら、このコンピュータでオセロもできるんだよとおっしゃられたのが記憶に残っている。

研究室では、毎週のゼミのような研究会で、Lispという言語に関する原初のようなものを読んでいた。私は、その頃すでに1年留年していて、一級下の学生の皆さんと参加していた。卒業に当然必要な単位だったからである。Lispは、emacsなどで今でも使われている記号処理言語であるが、当時は、参加していたけれども、何がなんだかわからなかった。言い訳じみているが、今は、この言語の特徴をある程度理解している。

当時の研究会は、助手の方が担当していて、福村先生が来ることはなかった。 いちどだけ、研究室の宴会に参加したことがある。

他の学生の皆さんは、4年になって、必死に卒業論文を書いていたが、私は他の活動が忙しくて、ほとんどやらなかった(必修の授業の単位は、必死で取った)。当時、卒業研究は必修ではなかったのである。そんなことで、卒業研究をしなかったのは他にいなかったと思う。皆さん、就職のためには、何かをする必要があったから一生懸命だったのだと思う。(現在は、卒業研究は必修になっているという話だ。私が卒論を出さずに卒業したからかもしれない)

卒業して数年してから、私は神戸大学大学院の経済学研究科の入学試験を受けることになった。経済学の研究に強い興味を持っていたからである。学生時代はマルクス経済学を必死で勉強したが、そのころは、マルクス経済学研究の思弁的な性格に嫌気が差して、数学的論理の上に立つ、いわゆる近代経済学にたいする興味があった。

願書を書くときに、学部時代の教授からの推薦をもらう必要があった。当然、私は福村先生の推薦をもらう必要があった。私は確実に劣等生であり、推薦に値する人間ではないと思っていた。面識も殆どなかった。しかし、推薦をもらえないと受験できなかった。私は先生に電話をして面会を申し込んだ。そして、研究室を訪問した。

事情をお話して、推薦をいただきたいと言った。福村先生は「君は学部時代なにを研究していたんだね」と聞いた。私は「Lispを勉強していました」と事実をいった。福村先生は、ただそれだけ聞いて、推薦に必要な短い文書を書いて印を押した。その他の会話は全くしなかったと記憶している。

その推薦は私にとってはとても大きな喜びだった。私は、なんとか神戸大学大学院経済学研究科の試験に合格した。

ときどき、私は福村先生の推薦に応えることができたのだろうかと考える。福村先生がわたしに期待を持っていたとは到底思えない。が、その推薦に応えるべく、最大の努力をしたということは、自信を持って言える。

福村先生の記憶の中に、私の名前や姿の記憶があったのは、先生の長い人生の中で、ほんの10分か20分程度のことだったと思うが(笑)。

天国の福村晃夫先生、ありがとうございました。

2021年2月25日木曜日

責任について

  最近思うことは、人はときに生活が苦しいとか、いろいろな困難に直面したりすることはあるものだが、少なくともそれは、その本人の責任ではないということ。本人が、その原因を何か自覚することは大切だが、その責任はといったらそれは社会の責任だ。

2021年2月21日日曜日

社会と個人の動的関係

 40年ほどの研究者生活を振り返って、やるべき研究はやり尽くしたと思っていた。が、本多利明のことをいろいろ調べているうちに、なんだか、一番大事なことを忘れていたと思うようになった。

もともと、工学部の私が、かなり畑の違う経済学をやろうと思った動機は、個々人が命名勝手に動くこの社会が、なぜ全体として秩序を持っているのかを探りたかったのである。マルクスの資本論から、あるいは哲学に関わる様々な論文を読む中で、社会というのが独自の発展法則を持つということに、漠然とした共感を持っていた。ただ、個人は自由でなければならない。その社会がどうして自立した発展法則を持つのか、その科学的メカニズムを知りたかった。

マルクスは、上部構造は下部構造に規定されると唯物史観を説いた。下部構造とは、今で言うインフラではない。政治や思想や文化に相対する、経済システム、すなわち我々が日々の生活の中で動物的文化的要求を満たす基本的な在野サービスを提供するシステムとしての経済システムである。だから、経済学を学ぶしかないと思った。そして、28歳で、神戸大学大学院に入学した。 

私の研究の軸は一貫してそこにあった。その軸の周りの様々な、あるいみ、かなり分野の違いそうなことも含めて研究してきた。また、その多くの部分は著書や論文で発表してきた。最もその軸に近いものは「環境と社会経済システム」という本だ。そこでは、個人のネットワーク的なものと、それらから相対的に自立した存在としてのシステムとしての合目的性がどのような関係にあるのかを論じた。しかし、ある意味これは中間報告であったと言わざるを得ない。私の答えのかなりの部分を書いてはいたが、やはり最終的結論ではなかった。

まとまった結論的答えを書くべきだと思うようになったのである。

その取っ掛かりとして、2012年頃に研究していた、集団行動のシミュレーションを再現したいと思った。

大体、そのころ、いろいろな研究をしていたのだが、それらはほとんど研究科の紀要に折々発表してきた。それらのどれも大事な研究だと思っていたが、いちいち、査読付きの雑誌に投稿して面倒な手続きをするのを避けるためだ。十分紀要でよかった。ただ、その集団行動のシミュレーションは、行動経済学会の場で、発表したことはあったが、研究科紀要も含めて、それ以外の形では発表しなかった。たぶん、もっと掘り下げる必要があると思ったからだと思う。

この研究は、個々人の最適化行動の結果が集団のダイナミックな秩序ある動きを作り出すというのを、ごく単純な想定で示したものだ。

試しに当時のプログラムを、動かしてみた。Macosxが乗っているのも12スレッドのCPUだが、Linux Ubuntuのマシンが  i9-9920X CPU @ 3.50GHz 12コアの24スレッドの超高速なので、このスレッドをフルに動かす形で、5万人の想定で動かしてみた。


 一つ一つの小さな粒のようだが短い線が個人を表す。赤、青、黄色、緑、の四色があり。個人の個性は活動的だが視野が狭いから、動きは遅いが視野は広いというタイプのバリエーションがある。それぞれは、他者にぶつからない範囲で方向を調整しながら、できるだけたくさん動きたいという目的意識を持っている。そうして、1597回、繰り返した状況のものだが、全てランダムに設定しているにもかかわらず、左上から、右下への大きな、マクロ的、したがって全体的な動きが現れている。(個人は、この円の外側から出そうになると、同じ方向に反射するようになっている)初期状態は、個人の配置、向きが、全てランダムに与えられている。

つまり、個人のミクロ的な構造が ランダムな状況から、全体的な目的意識性を思わせる構造を作り出しているのだ。更に興味深いのは、その動きの左右の円の壁に、へばりついて動きが取れなくなっている人々を生み出すことだ。

シミュレーションをキャプチャした動画をいかにアップしておく。ファイルサイズが大きくなる関係で、画面の大きさを半分にして、最初の動き、構造が形成されたときの動き、そして、その構造が崩壊するときの3つに分けてある。 

(1)初期状態から、構造ができるまで。構造とは、個々人は自分の可能な方向に最大に動こうとしているだけにもかかわらず、左上から右下に向けた人々の動きができるということである。いまのところ、初期状態からどの方向の構造ができるかは予測できない。一旦初期状態を与えると、あとは確率的な動きはなくなる。つまり初期状態はランダムに個人の位置や方向が与えられるのだが、同じ初期状態は必ず同じ結果を生み出すということである。

(2)構造がある程度持続している状態。ただ、そのなかでも、壁にへばりつかされている人々が現れている。社会の大きな動きからは取り残される人々である。
(3)構造が崩壊していく。構造の崩壊は、殆どの人が壁にへばりつかされてしまっているために崩壊する。一部の、自由な人だけが大きく動くことができる。

全体については、Youtubeにシミュレーションの動画をおいておいた。いずれ、研究としてまとめて発表したい。

https://youtu.be/4DbP3BJKCeU

 

2021年2月20日土曜日

阿部真琴「本田利明の伝記的研究」(1)〜(6)

 昭和30,32年のものだが、伝記的研究では、これに尽きるのではないかと思う。私が生まれた頃のものだが、これ以上のものはお目にかかっていない。

この上に、われわれは、どのような本多利明の人間像を想像できるのか、それが問われている。(本多は、本田でも、どちらでも良い。というか、わからない。)

本多利明「経世秘策」巻上の覚書(継続)

( 日本思想体系の該当書のページ数をもとにする)

p.23

貨幣供給量(金貨、銀貨の供給量)に制限を設けよと。それをしないから、物価高が起こると。幕府は貨幣供給によって、直接購買力を高めようとするが、物価高によって米の相対価値が下がり、自らを苦しめる。鎖国によって閉じた国家は、貨幣供給を増やすことによっては豊かになり得ないことを示す。

貨幣供給量の制御が第一の治道(政務)だと強調する。

四大急務の第一、焰硝。爆薬。海路、河道、道路などの整備、水害などの回避には爆薬は不可避だが、民間に任せておく限り、短期的利益がないためにやらない。国家がやるべきだという。インフラ投資と見ている。 

第三の船舶。

「天民一人廃亡するは皆国君の科なり」

「諸色の相場不同、高下は、渡海海運送不便利より出生セリ」

巻下

「農民餓死して良田畠を亡所となせしは、誰が過失とならん、皆国君の罪科に帰すべし。不忠不貞言うべき様なし。天罰も遅きものかなと、我を忘れて憤怒の心の生るるは、これを思うの微意なればなり」p.28

徹底した体制批判、驚くべき。

(書き掛け)

2021年2月18日木曜日

本多利明氏の石碑(金沢市傳燈寺)について

 本多利明の墓については、現状では不明であることを先の記事で示した。また、石碑について、石川県金沢市の傳燈寺に現存することにも触れた。

そして、同寺の先の住職がまとめられた、資料の公開を同寺の現在の住職(兼務)である髙橋友峰 (たかはしゆうほう:大安禅寺住職、傳燈寺兼務住職)氏より公開の了解を得たので、以下に該当箇所だけ示しておく。

書籍の正確な奥付きは、以下の画像に記載されたものである。なお、電話番号は現在使われていない。


 

(現在のコロナ禍が終わったら、石碑を拝見させていただこうと考えている)

石碑が建てられたのは、文政四年九月(西暦1821年)であると、記載されている。なお、本多利明が没したのはその前の年の12月22日となっている(桂林寺過去帳、本籍非記載とは異なる)。この建立者の一人、宇野保定は、建立から五年後の1926年に「本多利明先生行状記」を執筆している。

上の写真は、本多利明先生の石碑がこちらであると、矢印とともに記載されている。下の写真の中央にある、横幅のある石碑が本多利明の石碑である。


 

現存しているのは、上記図の3である。以前は4にあったが、松の根の関係で3に移されたらしいとの記載がある。先の記事で示した、本庄栄治郎氏の「本多利明集」の口絵の写真は、背後にいかにもそれらしい松の木を背負っているので、4の位置にある時に撮られたものと推察できる。


 石碑の全景である。


 石碑の現状に関する詳細な記述と、碑文の一部が掲載されている。

碑文の実測図と拓影である。



 

碑文の残りと、建立者の紹介、及び本多利明の紹介である。本多利明の紹介は、他の文献に記載のものと思われるが、建立者の紹介は、ここにしかみられない。

本多利明は、江戸時代においても、極めて稀な、優れた思想家であったと思う。ただ、書物を公刊せず、また、その思想は、幕府から見れば極めて過激なものであるにもかかわらず、本多利明自身が、幕府に反発していると受け取られないように、極めて慎重な態度をとり続けたために、公権力との軋轢は発生しなかった。彼にはそういう意図はなかったものと考えられる。しかし、江戸時代の社会の矛盾を解決するためにどうすればいいかを、数学者、天文学者、そして経済学者として、すなわち、科学者の目から見て考え抜き、それは極めてラディカルなものになっていったし、ならざるを得なかった。

本多利明の思想は、明治維新をも突き抜け、日本の戦後改革をも射程に収めるほどのものであり、したがってその根底にある本質は、現代においても生き続けるほどの力を持っている。 現代日本人が確かに知るべき思想なのである。

そういう思想家、本多利明の物理的痕跡が、極めて貧弱なことは、やむを得ないことではあるが、とても残念なことである。この金沢市の傳燈寺の石碑は、その意味で、貴重なものである。保存すべきものと考える。このコロナ禍が過ぎていった時には、必ず、保存のための具体的な対応をしたいと考えている。

2021年2月17日水曜日

江戸時代の和算家、村松茂清の円周率計算をC++プログラム化する

日本で初めて円周率を求める数学的アルゴリズムを提示したのは、村松茂清の算俎(1663年)と言われている(平山諦「学術を中心とした和算史上の人々」(1965年刊)による)。これをコンピュータプログラム上で再現してみるのが今回の狙いだ。

まず、初めにそのアルゴリズムそのものをここに示しておく。

原著の算俎では、この辺り https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100248259/viewer/137 に書かれていると思われるが、現状では読みきれない。

そこで、平山氏の著作に詳しい記載があり、また、私自身の理解のために、筑波大学の礒田正美氏のサイトにある数学史の教育素材「和算入門 第壱章 算木」を参考にさせていただいた。それらをもとに、アルゴリズムを再現すると、以下のようになる。

 

図のように、直径一の円の四分の一を考える。ACDBは円弧上にあり、角AOBは直角である。円弧ABは円の四分の一、円弧CBは円の八分の一、円弧DBは円の十六分の一である。このように、円弧の長さを半分ずつにしていく。そして、求めたmiを、円全体に内接するように整数倍すれば、その長さが円周率になるわけである。

まず、四分の一の場合から求める。ABの長さm1は、直角二等辺三角形の斜辺であるから、m1=√2/2である。m2は、ピタゴラスの定理によりCEの二乗とBEの二乗の平方根である。CEの長さは、COの長さすなわち、√2/2からOEを引いたものであり、OEはBEに等しく、BEは、ちょうどm1の半分である。これでm2が求められる。

m3の長さも、m2が求められた後では、BFの長さが、m2の半分であり、OBが1/2であることから、OFが求められ、したがって、FDが求められ、BFの二乗とFDの二乗の平方根がm3になるので、求めることができる。

以上の手続きから、一般にmiとmi-1の関係として表すと次のようになる。

これをC++のプログラムにすると以下のようになる。

/*                                                                                                           
村松茂清の方法による円周率の計算                                                                             
2021年2月18日                                                                                                
 */
#include <iostream>
#include <iomanip>
using namespace std;

int main(){
  cout << fixed << setprecision(30);
  long double m = sqrtl(2.0)/2.0, t = 2.0;
  long double pi;
  long double s1,s2;
  for (int n=1; n<50; n++)
    {
      t*=2.0;
      pi= t*m;
      cout << "n = " << n << " m = " << m << " pi = " << pi << endl;
      s1 = (m/2.0)*(m/2.0);
      s2 = sqrtl(0.25-s1);
      m = sqrtl((0.5-s2)*(0.5-s2)+s1);
    }
}

計算結果は次のようになる。

アルゴリズムそのものは正しいはずだが、n=31までは、改善がある。

 3.141592653589793238

それ以後は改良が無くなった。コンピュータの計算精度の問題だと思う。どなたかご教示いただければ幸いである。

しかし、このn=1の時は、四角形を内接させて計算させているが、n=31の時は、4,294,967,296角形、約43億角形を内接させているので、人間の目にはほぼ完全な円に見えているはずである。

ちなみに、村松茂清は、32,768角形まで計算したようだ。それでも、手計算でやったことを考えれば、驚異的なものだと思う。




関孝和によるピタゴラスの定理の証明

 平山諦氏の「関孝和」(昭和34年刊)に掲載されている、若かりし頃の関孝和氏のピタゴラスの定理は以下のようなものである。氏は、図だけで証明されているとしているが、あえて少し解説を加える。


 上のものが、平山氏による写の図だが、私の手書きのように記号をつけよう。証明すべきものは、
AB^2=BC^2+CA^2

(^は便宜的な冪乗の記号)

AB^2は、正方形ABEIの面積で、BC^2は、正方形ADFCの面積、CA^2はHFGIの面積である。射線部は、共通だから、相殺される。三角形ABCと△BDE、△FGI、△AHIは、合同であることが証明される。

したがって、ピタゴラスの定理が証明される。

私的には、ピタゴラスの定理は、内接円から求めるのが好きだが、面積から求めるのが一般的で、色々な方法がある。

ピタゴラスの定理は、図形を考える上で最も基礎的なものの一つだが、昔学校で習った時は、証明のことなどまともに考えずに、丸暗記していた。 

日本で、ピタゴラスの定理を最初に公にしたのは、1673年、村瀬義益氏ということだ。

2021年2月16日火曜日

本多利明の墓

関孝和の墓の確認から、本多利明の墓、記念碑のことを調べることになった。 以下、今日色々調べたことを記録のためにここに書いておく。

まず、 関孝和の数学をきちんと把握しようと思い、平山諦氏の「関孝和」(昭和三十四年刊)を読んでいたら、関孝和の墓の現状という節があった。その中で、関孝和の碑があり、その建立の中心になったのが、本多利明と書いてあった。その碑文が書いてあり、建てた者の名で、本多利明を筆頭に八名が書いてあった。

「本多利明先生行状記」に、確かに本多利明が、関孝和氏の碑を先頭になって建立したという記載があり、それは読んでいたが、この関孝和の記述の中に出てくるほどのこととは思っていなかったので驚いた。

平山氏は次のように書いている。

「この八人の建碑者のうち、本多利明(1744-1821)が数学者としてばかりでなく、経済学者としても有名である。最上徳内の蝦夷地探検は本多利明の志を実現したものである。また利明は、その頃、江戸小石川音羽で塾を開いていて、音羽先生と尊敬され名声の高かった人であるから、利明が主導者であったであろう」

急に思い立って、この日を見たくなり、関孝和の墓のある浄輪寺にいった。確かにそこには、墓と碑があった。日は、戦禍で壊れたので、再建されたものだった。(写真の一番右側のものが、碑である。そこの側面に名が刻んである)

中山氏の記述通りの碑文が掲載され、本多利明の名も確認できた。

ここまで調べて、ふと気になったのは、本多利明の墓はどこに?ということだった。Wikipediaで調べると、墓所は、文京区目白台の桂林寺となっている。そこで、寺に電話して、住職様に話を伺うと、確かにかつては本多利明家は、同寺の檀家であったという。ところが、四代前の住職の時、墓所が宅地となり、その関係で、本多利明の墓は、豊島区の雑司ヶ谷霊園に移されたとのこと。

雑司ヶ谷霊園に電話して事情を話し、墓の所在を確かめた。が、家族の方にしかお話しできないとのことで、もし、家族が維持されていなければ、墓は、他の方に譲られることになるとの話だった。あるかどうか、数千ある墓の中から、確かめることはできないとのこと。豊島区の教育委員会にも確かめたがわからないということ。桂林寺の住職様は、もう墓はないのではないかとのことだった。

関孝和の墓も質素だと思ったが、さらに、本多利明の墓の所在は現状ではわからず、という事実に衝撃を受けた。

そこで、本多利明のことが初めてまとまって紹介された本庄栄次郎氏の「本多利明集」(昭和十年刊)に、本多利明の碑の写真が出ているのを思い出した。


 ここには、「加賀国河北郡瑞應山傳燈寺境内所在 本多利明の碑」とある。ネットで調べると、金沢市に確かにそういう名前の臨済宗の寺があった。電話番号があったので電話してみたが、使われていないとのこと。金沢までは、このご時世、すぐには調べに行けないので困った。もし廃寺になっていれば、宗派から調べることができるのではないかと思ったが、臨済宗は、他とは違い、多くの宗派に分かれている。

傳燈寺の宗派が何かという情報はネットにはない。しかし、臨済宗の宗派の寺の半数以上が妙心寺派に属しているということで、妙心寺の宗務担当の方に電話をすると、確かに傳燈寺は、妙心寺派だが、すでに無住の寺になっているとのこと。しかし、その寺を兼務で担当している他の寺があるということで、そちらに電話をかけた。

その住職様に確認すると、確かに傳燈寺には、その碑があるとのこと。ただ、それは寺から一段高い場所にある墓所にあるとのことで、まだ確認されていないとのことだった。しかし、先の住職が平成六年にまとめた書物にその碑のことが掲載されているので、該当箇所2ページを送ってくれることになった。

それについては、メールでその日のうちに、資料が送られてきた。それについては、また次の機会に詳細を書きます。

2021年2月15日月曜日

本田利明の自然治道と時勢

 本田利明の経世論の根底にある基本思想は、自然治道という言葉で表される。

最初は、自由主義のようなものかと思ったが、それとはかなり異質なものである。この自然は、Natureというものではない。あえてじねんと言ったほうがいいかもしれない。宮田純氏が「本田敏明の経済思想ー寛政七年成立「自然治道之弁」の総合的研究ー」で強調されている「おのずから」とい考え方が、適切に思う。おのずからは、みずからとは異なる。みずからは、視点が動的主体の中にある。おのずからは、その動的主体を客体として捉えている。つまり、自然治道の自然は、その主体(ここでは社会システム)がおのずから望ましい方向に動いていくように、道を治めるということである。すなわち、社会システムは、それを見ているここの主体、利明も含めた個人から相対的に独立した主体として、おのずからダイナミックに変化していくということである。そのような、社会システムの望ましい動的変化を生み出すために、為政者がすべきことを俊明は定めているのである。4つのことを挙げているが、そのどれもある意味、社会のインフラの整備である。インフラを整備できるような権力者のありようである。

そして、その社会システムが動的に変化していく有様を、自制と呼んでいる。

では、その時勢の中で人はどのようなものであるのか。これはまた、詳細に書くつもりだが、何か人が、権力者が、あるいは英雄が、この時勢を動かしているように見えるが、それは、おのずからに反する。その中で、あたかもトリガのような役割を果たしているの人は、客体としての人でないことはもちろん、主体としての人でもなく、それは社会システムの記号のようなものなのである。


2021年2月12日金曜日

日本古典全集 古代数学集(上)

 昨日図書館(上智大学)で、10冊ほどの和算に関する本を借りてきた。

その中に、日本古典全集 古代数学集(上)がある。(下)も借りたかったのだが、図書記号の場所にはなかった。誰かが借りているわけでもあるまい。どこかに紛れ込んでいるか。

でもまあ、(上)には、「割算書」(毛利重能、しげよし)と「塵劫記」(吉田光由)が入っているの、まあ、OKだ。図書館の二階には、さらに、古典数学の原書をそのまま収めたものが分厚く大きなほんとして何冊もあったが、なにぶん、大学の研究室はもう無いので、家まで運ぶキャリーバッグにも収まりきれないので、断念した。しかし、まあ、気になった、主だったものは借りてきた。 

これらの感想をつらつら書こう。

ところで、この本は、昭和二年に刊行されたもので、塵劫記については、まさに維新後初めて復刻されたのであるが、なんとこの編集者には、あの歌人の与謝野晶子、与謝野寛夫妻がなっているのである。少し絶句する。

塵劫記の序文は漢文。

 

2021年2月11日木曜日

和算とはなんだったのか

 今の日本で、和算を通学的ツールとして学ぼうという者はほとんどいないだろう。

学校で、関孝和という和算家の名前は聞いたことは有るだろうが、無駄なことに人生を捧げた人間としか思えないのではないだろうか。私がそうだった。

しかし、和算のことを知れば知るほどそのすごさを感じる。高次方程式も、多元方程式も、さらには行列、そして図形の解析、高校レベルの域を超えている。もちろん、そこには微分はない。それは、和算かの能力の低さではなく、それを必要とする科学的材料がかけていたためだと私は思っている。なぜ科学的材料がなかったのか。鎖国をしていたからで有る。なぜ数学的形式が、西洋との交流もなく、独自の形式のまま発展していったのか、それもまた鎖国のためで有る。

他国の進歩との交流の中で鍛えられるべき機会を、鎖国のために失していたので有る。

日本の文化や民族性を教育の中でしっかり育むためには、和算と洋算の関係を学校なりでしっかり伝えなければならないはずだが、学習指導要領にそんな項目は無いだろう。

日本永代蔵


第1巻、4、 昔は掛け算いまは当座銀

三井の商売のやり方が書いてある。「現銀(きん)売りにして掛け値無し」

5、世は欲の入れ札に仕合わせ

タイトルの意味がいまひつつ理解できないが、面白い。

「それぞれ身分相応に身の持ち方をするのが身良いものだ」、分相応に生きろという叔父の言葉を思い出す。

タイトルの意味が最後でわかった。要するに、昔繁盛した商家の後家が、借金ばかりになった。家を売ろうにも、借金以下でしか売れない。そこで、くじを作った。くじに当たった人にこの家を差し上げるというのだ。くじ(頼母子の入れ札)は一枚銀4匁。みんなが損したところで、4匁と入れ札を買った。3000枚売れた。12貫目を設けた。くじに当たったものは、たった銀4匁で、一軒の家もちになり、打った女は金が入って再び金持ちになったという。


第4巻(3) 仕合せの種を蒔銭

両替商になった商人の話が出ている。結局、交換比率の不安定な三種類の銭があるという不便が、両替商を生んだ。そこに商機があった。

 各巻5話ずつで、全6巻、全30話、読み終えた。小説のようにも書かれているが、随筆のようでもある。全話読んだが、それをまた吟味しながら、活かしたいと思おう。

「江戸後期における経世家の二つの型」、本多利明と海保青陵の場合

 「聖人という概念は、古学派のそれも含めて、全て否定される。彼らのとく、治国平天下の論理、勧善懲悪の倫理は富国=国家豊穣策に無益であるがためである」」

「さらに全業績を通じて、その基礎理念である自然治道そのものに、体制否定の論理を鋭く含んでいることを、正しく評価しなければならない。 」

2021年2月10日水曜日

江戸の算術指南

 図書館から借りてきたものだが、全体が必要なので、別途購入することにした。

2021年2月7日日曜日

上智大学図書館に行く

 海保青陵と本多利明関連の図書をどうしても読みたいので、上智大学図書館に行った。事前に、図書館の検索システムでかなりの数の本を調べておいた。

上智大学名誉教授のカードは、ジョーカーのようなものだ。予約なしに、入校できる。また、予約なしに図書館に入ることができて、教員と同じだけの図書を同じ期間借りることができる。ありがたいものだ。蜜になりそうならばいけないのだが、今の時期、混んでいるはずがない。

本を14冊を借りてきた。重たかった。

 
四谷も変わっていた。が、四谷見附の木は変わらずにすくと立っていた。

 
大学に入れて、図書館が使えることはなんと素晴らしいことだと思う。


2021年2月4日木曜日

三流貴族

 去年の四月から、ほとんど仕事をしない年金生活者になった。住むところにも困らない。食べることも、さほど贅沢をしなければ、夫婦共々食べていける。この境遇は、三流貴族と言えるのでは無いかと思う。社会の中で派手な存在では無い。権力も持たない。ただ、生活はなんとか約束されている。そういう意味での、貴族的特権を持っている。もちろん、年金も特権ではなく、ただ過去に納めてきた年金支払いの戻しではあるのだが。

平安から江戸時代まで、こうした下級貴族はいたはずだ。慎ましく生きてきた貴族がいたのである。

2021年2月3日水曜日

森鴎外の「山椒大夫」

 安寿と「最後の一句」の長女いちとが、ぴったりと重なる。兄弟にとっての長女の姿の森鴎外による典型である。

2021年2月2日火曜日

森鴎外の「高瀬舟縁起」

 ここに、先のブログで最後に書いた、高瀬舟には罪の相対化と幸福の相対化という二つのテーマあるというのが、別の言葉で著者によって書かれている。

「この話は『翁草』に出ている。・・・私はこれを読んで、その中に二つの大きい問題が含まれていると思った。一つは財産というものの観念である。銭を持ったことのない人の銭を持った喜びは、銭の多少は関せない。・・・・いまひとつは、死にかかっていて死なれずに苦しんでいる人を、死なせてやるということである」

森鴎外の「高瀬舟」

 喜助「わたくしはこれまで、どこといって自分のいて良いというものがございませんでした」

庄兵衛「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである」

最後の一句と同様に、物語の意味づけの根幹は、読者に任せている。

公によって裁かれる罪とは、与えられる罰とはなんのかを問うている。その罪にその罰は値するのかと。

しかし、もっと深いものがある。公が罰を与える理念そのものが、人間の持っている罪意識や罰の意識とずれているということである。

それが封建制のもとで、民衆の道理をくみ上げる手段がなかった時代の必然だとは言える。

では現代はどうだ。

罪を犯すのは人である。罪を作るのは人ではない。国家である。国家がある行為を罪と断じるから罪なのである。よく言われるように、人を殺しても、それが戦争であるならば、かなりの確率で罪に問われない。また、完全に正当な防衛であれば、それも罪に問われないだろう。では、罪を作る国家とはなんだろう。それは民衆の集合的意思と行為の一つの実体化である。その多様性、システムの振れ幅は大きい。独裁制からルソー的共同性まで色々にありうる。そのシステムを維持するために、人々に加える制約が罪として現れるのである。

罪は国家の産物でもあり、また、時代の産物でもある。

高瀬舟には、また、幸福の相対性も鋭く描かれている。罪の相対性と幸福の相対性が二重に映し出された小説であるといって良い。

森鴎外の「最後の一句」

 もちろん、過去に読んだことはある。

最後の一句はなぜそこまで、憎悪を帯びた驚愕と言えるほどまで、佐佐や同席の者たちの心に響いたのか。解釈はどのようにもできよう。 

ただ、事務仕事をこなすように司法を運営してきた佐佐に、真に司法的結論が正しいかどうかを考え切る誠実さがなかった。それを指摘されたことによる、憎悪と驚愕だったと言えるのかもしれない。また、他にも解釈は可能だ。

太郎兵衞の罪が減じられたのは、佐佐の驚愕からではないのだろう。たまたま、こうした訴願が話題になって、大嘗会の御赦免対象にふさわしいことが上に伝わったからだと思われる。

 太郎兵衞の罪が真に試合に値するのかどうか。書かれているものを見る限りは、現代的感覚では、それは全く値しない。しかし、この物語の中には、そのように不当な罰であることを誰も指摘していない。ある意味、妻や母ですらそれを受け入れている。いちは、罰が不当であることは訴えていない。ただ、父を助けたいから、自らの命を差し出すということだけである。

たとえこともの一言であっても、社会を動かす力を持っているというのが、この物語の主題であるかもしれないが、 罪と罰との対応への不条理など、何か、世間の中にある受け入れがたいものとの関係が描かれていれば良いのだが。しかし、元になった随筆の中には、ないのだろう。一度読んでみたい。

追記:2021年2月8日

(上智大学図書館で、該当箇所を読んだ)

オリジナルの太田蜀山人の随筆「一話一言」が意到随筆を読んだ。ストーリーはおおむね一致しているものの、役人の個別名は出てこず、また、そこに「最後の一句」はなかった。オリジナルから、森鴎外に至るまでのどこかで入ってきたのか、それとも、鴎外が初めて入れ込んだのか。また、父親が減刑されるまでの過程は、全く、ただ、淡白に描かれていただけだった。

森鴎外の「佐橋甚五郎」

 読んだことがありそうでなさそうで記憶が定かではない。

最後の最後に定説ではないことが語られていて拍子抜けする。

甚五郎は、刀を何としても手に入れたいと思っていたように、物事に執着するような人間であるようで、また、ふと家康の元をさってしまう、淡白な人間であるようにも見える。キャラの焦点が定まらないから、読む方も苦労する。

が、この物語を単なる史実の語りでしかないと思えば、キャラの一貫性など求めるべきでもないだろう。

2021年2月1日月曜日

芥川竜之介の「戯作三昧」

 「老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物を模造していない。いわばこの桶の中の空のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅の意識であった。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠ることができたならばーー無心の子供のように夢もなく眠ることができたならば、どんなに喜ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。」

「そこには何らの映像をも与えない叙景があった」

「この時の彼の王者のような目に映っていたものは、利害でもなければ愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦びである。あるいは恍惚たる悲愴の感激である。この感激を知らないものにどうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」はあらゆる残滓を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。」

文章を書く悦び。そう、私もたくさんの研究の文書を書いてきたが、書いている時の恍惚感はここに描かれたものと同じだ。

ということを読み終えた今思い出した。

この戯作三昧、かつて読もうとして途中で放擲したものだった。最後まで読んで、改めて、十分すぎるくらいの価値がある読み物であることを知った。

書くことで恍惚とした喜びに浸れること、それこそかつての私が思っていたことだった。

将軍と兵士

 歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。 そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろ...