「老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物を模造していない。いわばこの桶の中の空のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅の意識であった。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠ることができたならばーー無心の子供のように夢もなく眠ることができたならば、どんなに喜ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。」
「そこには何らの映像をも与えない叙景があった」
「この時の彼の王者のような目に映っていたものは、利害でもなければ愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦びである。あるいは恍惚たる悲愴の感激である。この感激を知らないものにどうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」はあらゆる残滓を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。」
文章を書く悦び。そう、私もたくさんの研究の文書を書いてきたが、書いている時の恍惚感はここに描かれたものと同じだ。
ということを読み終えた今思い出した。
この戯作三昧、かつて読もうとして途中で放擲したものだった。最後まで読んで、改めて、十分すぎるくらいの価値がある読み物であることを知った。
書くことで恍惚とした喜びに浸れること、それこそかつての私が思っていたことだった。
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