まず、 関孝和の数学をきちんと把握しようと思い、平山諦氏の「関孝和」(昭和三十四年刊)を読んでいたら、関孝和の墓の現状という節があった。その中で、関孝和の碑があり、その建立の中心になったのが、本多利明と書いてあった。その碑文が書いてあり、建てた者の名で、本多利明を筆頭に八名が書いてあった。
「本多利明先生行状記」に、確かに本多利明が、関孝和氏の碑を先頭になって建立したという記載があり、それは読んでいたが、この関孝和の記述の中に出てくるほどのこととは思っていなかったので驚いた。
平山氏は次のように書いている。
「この八人の建碑者のうち、本多利明(1744-1821)が数学者としてばかりでなく、経済学者としても有名である。最上徳内の蝦夷地探検は本多利明の志を実現したものである。また利明は、その頃、江戸小石川音羽で塾を開いていて、音羽先生と尊敬され名声の高かった人であるから、利明が主導者であったであろう」
急に思い立って、この日を見たくなり、関孝和の墓のある浄輪寺にいった。確かにそこには、墓と碑があった。日は、戦禍で壊れたので、再建されたものだった。(写真の一番右側のものが、碑である。そこの側面に名が刻んである)
中山氏の記述通りの碑文が掲載され、本多利明の名も確認できた。
ここまで調べて、ふと気になったのは、本多利明の墓はどこに?ということだった。Wikipediaで調べると、墓所は、文京区目白台の桂林寺となっている。そこで、寺に電話して、住職様に話を伺うと、確かにかつては本多利明家は、同寺の檀家であったという。ところが、四代前の住職の時、墓所が宅地となり、その関係で、本多利明の墓は、豊島区の雑司ヶ谷霊園に移されたとのこと。
雑司ヶ谷霊園に電話して事情を話し、墓の所在を確かめた。が、家族の方にしかお話しできないとのことで、もし、家族が維持されていなければ、墓は、他の方に譲られることになるとの話だった。あるかどうか、数千ある墓の中から、確かめることはできないとのこと。豊島区の教育委員会にも確かめたがわからないということ。桂林寺の住職様は、もう墓はないのではないかとのことだった。
関孝和の墓も質素だと思ったが、さらに、本多利明の墓の所在は現状ではわからず、という事実に衝撃を受けた。
そこで、本多利明のことが初めてまとまって紹介された本庄栄次郎氏の「本多利明集」(昭和十年刊)に、本多利明の碑の写真が出ているのを思い出した。
ここには、「加賀国河北郡瑞應山傳燈寺境内所在 本多利明の碑」とある。ネットで調べると、金沢市に確かにそういう名前の臨済宗の寺があった。電話番号があったので電話してみたが、使われていないとのこと。金沢までは、このご時世、すぐには調べに行けないので困った。もし廃寺になっていれば、宗派から調べることができるのではないかと思ったが、臨済宗は、他とは違い、多くの宗派に分かれている。
傳燈寺の宗派が何かという情報はネットにはない。しかし、臨済宗の宗派の寺の半数以上が妙心寺派に属しているということで、妙心寺の宗務担当の方に電話をすると、確かに傳燈寺は、妙心寺派だが、すでに無住の寺になっているとのこと。しかし、その寺を兼務で担当している他の寺があるということで、そちらに電話をかけた。
その住職様に確認すると、確かに傳燈寺には、その碑があるとのこと。ただ、それは寺から一段高い場所にある墓所にあるとのことで、まだ確認されていないとのことだった。しかし、先の住職が平成六年にまとめた書物にその碑のことが掲載されているので、該当箇所2ページを送ってくれることになった。
それについては、メールでその日のうちに、資料が送られてきた。それについては、また次の機会に詳細を書きます。
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