本田利明の経世論の根底にある基本思想は、自然治道という言葉で表される。
最初は、自由主義のようなものかと思ったが、それとはかなり異質なものである。この自然は、Natureというものではない。あえてじねんと言ったほうがいいかもしれない。宮田純氏が「本田敏明の経済思想ー寛政七年成立「自然治道之弁」の総合的研究ー」で強調されている「おのずから」とい考え方が、適切に思う。おのずからは、みずからとは異なる。みずからは、視点が動的主体の中にある。おのずからは、その動的主体を客体として捉えている。つまり、自然治道の自然は、その主体(ここでは社会システム)がおのずから望ましい方向に動いていくように、道を治めるということである。すなわち、社会システムは、それを見ているここの主体、利明も含めた個人から相対的に独立した主体として、おのずからダイナミックに変化していくということである。そのような、社会システムの望ましい動的変化を生み出すために、為政者がすべきことを俊明は定めているのである。4つのことを挙げているが、そのどれもある意味、社会のインフラの整備である。インフラを整備できるような権力者のありようである。
そして、その社会システムが動的に変化していく有様を、自制と呼んでいる。
では、その時勢の中で人はどのようなものであるのか。これはまた、詳細に書くつもりだが、何か人が、権力者が、あるいは英雄が、この時勢を動かしているように見えるが、それは、おのずからに反する。その中で、あたかもトリガのような役割を果たしているの人は、客体としての人でないことはもちろん、主体としての人でもなく、それは社会システムの記号のようなものなのである。
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