本多利明の墓については、現状では不明であることを先の記事で示した。また、石碑について、石川県金沢市の傳燈寺に現存することにも触れた。
そして、同寺の先の住職がまとめられた、資料の公開を同寺の現在の住職(兼務)である髙橋友峰 (たかはしゆうほう:大安禅寺住職、傳燈寺兼務住職)氏より公開の了解を得たので、以下に該当箇所だけ示しておく。
書籍の正確な奥付きは、以下の画像に記載されたものである。なお、電話番号は現在使われていない。
(現在のコロナ禍が終わったら、石碑を拝見させていただこうと考えている)
石碑が建てられたのは、文政四年九月(西暦1821年)であると、記載されている。なお、本多利明が没したのはその前の年の12月22日となっている(桂林寺過去帳、本籍非記載とは異なる)。この建立者の一人、宇野保定は、建立から五年後の1926年に「本多利明先生行状記」を執筆している。
上の写真は、本多利明先生の石碑がこちらであると、矢印とともに記載されている。下の写真の中央にある、横幅のある石碑が本多利明の石碑である。
現存しているのは、上記図の3である。以前は4にあったが、松の根の関係で3に移されたらしいとの記載がある。先の記事で示した、本庄栄治郎氏の「本多利明集」の口絵の写真は、背後にいかにもそれらしい松の木を背負っているので、4の位置にある時に撮られたものと推察できる。
石碑の全景である。
石碑の現状に関する詳細な記述と、碑文の一部が掲載されている。碑文の実測図と拓影である。
碑文の残りと、建立者の紹介、及び本多利明の紹介である。本多利明の紹介は、他の文献に記載のものと思われるが、建立者の紹介は、ここにしかみられない。
本多利明は、江戸時代においても、極めて稀な、優れた思想家であったと思う。ただ、書物を公刊せず、また、その思想は、幕府から見れば極めて過激なものであるにもかかわらず、本多利明自身が、幕府に反発していると受け取られないように、極めて慎重な態度をとり続けたために、公権力との軋轢は発生しなかった。彼にはそういう意図はなかったものと考えられる。しかし、江戸時代の社会の矛盾を解決するためにどうすればいいかを、数学者、天文学者、そして経済学者として、すなわち、科学者の目から見て考え抜き、それは極めてラディカルなものになっていったし、ならざるを得なかった。
本多利明の思想は、明治維新をも突き抜け、日本の戦後改革をも射程に収めるほどのものであり、したがってその根底にある本質は、現代においても生き続けるほどの力を持っている。 現代日本人が確かに知るべき思想なのである。
そういう思想家、本多利明の物理的痕跡が、極めて貧弱なことは、やむを得ないことではあるが、とても残念なことである。この金沢市の傳燈寺の石碑は、その意味で、貴重なものである。保存すべきものと考える。このコロナ禍が過ぎていった時には、必ず、保存のための具体的な対応をしたいと考えている。
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