2021年2月2日火曜日

森鴎外の「高瀬舟」

 喜助「わたくしはこれまで、どこといって自分のいて良いというものがございませんでした」

庄兵衛「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである」

最後の一句と同様に、物語の意味づけの根幹は、読者に任せている。

公によって裁かれる罪とは、与えられる罰とはなんのかを問うている。その罪にその罰は値するのかと。

しかし、もっと深いものがある。公が罰を与える理念そのものが、人間の持っている罪意識や罰の意識とずれているということである。

それが封建制のもとで、民衆の道理をくみ上げる手段がなかった時代の必然だとは言える。

では現代はどうだ。

罪を犯すのは人である。罪を作るのは人ではない。国家である。国家がある行為を罪と断じるから罪なのである。よく言われるように、人を殺しても、それが戦争であるならば、かなりの確率で罪に問われない。また、完全に正当な防衛であれば、それも罪に問われないだろう。では、罪を作る国家とはなんだろう。それは民衆の集合的意思と行為の一つの実体化である。その多様性、システムの振れ幅は大きい。独裁制からルソー的共同性まで色々にありうる。そのシステムを維持するために、人々に加える制約が罪として現れるのである。

罪は国家の産物でもあり、また、時代の産物でもある。

高瀬舟には、また、幸福の相対性も鋭く描かれている。罪の相対性と幸福の相対性が二重に映し出された小説であるといって良い。

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