2021年2月26日金曜日

福村晃夫先生の思い出

 福村晃夫先生は2016年に亡くなられていた。いま、ウェッブで確認して初めて知った。いや、もしかして知っていたのかもしれない。そのあたりの記憶すら曖昧だ。

名古屋大学工学部電気電子工学科にいた頃、私は福村研究室に在籍していた(1975年〜1978年)。

コンピュータに対するあこがれがあったからである。

先生とはほとんど話する機会はなかった。ただ、研究室に配属されたあと、新たに設置されたコンピュータルームに案内していただき、小さな部屋の半分ほどになるミニコンピュータを紹介していただいた。1975年の頃だから、ミニコンピュータといっても、とても大きかったのである。先生が、ディスプレイを指しながら、このコンピュータでオセロもできるんだよとおっしゃられたのが記憶に残っている。

研究室では、毎週のゼミのような研究会で、Lispという言語に関する原初のようなものを読んでいた。私は、その頃すでに1年留年していて、一級下の学生の皆さんと参加していた。卒業に当然必要な単位だったからである。Lispは、emacsなどで今でも使われている記号処理言語であるが、当時は、参加していたけれども、何がなんだかわからなかった。言い訳じみているが、今は、この言語の特徴をある程度理解している。

当時の研究会は、助手の方が担当していて、福村先生が来ることはなかった。 いちどだけ、研究室の宴会に参加したことがある。

他の学生の皆さんは、4年になって、必死に卒業論文を書いていたが、私は他の活動が忙しくて、ほとんどやらなかった(必修の授業の単位は、必死で取った)。当時、卒業研究は必修ではなかったのである。そんなことで、卒業研究をしなかったのは他にいなかったと思う。皆さん、就職のためには、何かをする必要があったから一生懸命だったのだと思う。(現在は、卒業研究は必修になっているという話だ。私が卒論を出さずに卒業したからかもしれない)

卒業して数年してから、私は神戸大学大学院の経済学研究科の入学試験を受けることになった。経済学の研究に強い興味を持っていたからである。学生時代はマルクス経済学を必死で勉強したが、そのころは、マルクス経済学研究の思弁的な性格に嫌気が差して、数学的論理の上に立つ、いわゆる近代経済学にたいする興味があった。

願書を書くときに、学部時代の教授からの推薦をもらう必要があった。当然、私は福村先生の推薦をもらう必要があった。私は確実に劣等生であり、推薦に値する人間ではないと思っていた。面識も殆どなかった。しかし、推薦をもらえないと受験できなかった。私は先生に電話をして面会を申し込んだ。そして、研究室を訪問した。

事情をお話して、推薦をいただきたいと言った。福村先生は「君は学部時代なにを研究していたんだね」と聞いた。私は「Lispを勉強していました」と事実をいった。福村先生は、ただそれだけ聞いて、推薦に必要な短い文書を書いて印を押した。その他の会話は全くしなかったと記憶している。

その推薦は私にとってはとても大きな喜びだった。私は、なんとか神戸大学大学院経済学研究科の試験に合格した。

ときどき、私は福村先生の推薦に応えることができたのだろうかと考える。福村先生がわたしに期待を持っていたとは到底思えない。が、その推薦に応えるべく、最大の努力をしたということは、自信を持って言える。

福村先生の記憶の中に、私の名前や姿の記憶があったのは、先生の長い人生の中で、ほんの10分か20分程度のことだったと思うが(笑)。

天国の福村晃夫先生、ありがとうございました。

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