歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。
そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろん、一兵卒の記録が偶然残されることはある。が、歴史としての意味づけは与えられない。
人々の関心はもっぱら将軍の言動に惹きつけられる。
考えれば不思議なことだ。人間としての死の意味に変わりはないのに、なぜ歴史は将軍の言動としにのみ関心を持つのか。
それを理解するためには、またしても「システムの人格化」に登場してもらわなければならない。システム化された人間の社会を生きる我々は、実態としての人間と、システムの人格化されたものとしての人間という二重化された存在だ。将軍というのは、システムの中でのみ意味を持つ。そういう意味では、システム化した人格のスケルトンのようなものである。もちろん、それは、それが生きている時代にとっては、実態としての人間によって担われているのであるが、歴史的存在になれば、それは将軍というシステム化された人格だけが残っていくのである。
一兵卒もまた、システム化された人格である。ただ、それを担う実態としての人間は、将軍の実態である人間と、特に変わるところはない。一兵卒も、システムにとっては、多くはチリの一つにすぎないものだが、それによって実態としての人間もまたチリの一つになるわけではない。将軍と同じように、人間の生死がそこにはあるのだ。
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