2021年3月27日土曜日

挑戦する人々

 成功を保証されていることは挑戦の対象にはなり得ない。失敗するかもしれないことをあえてやることを挑戦というのだから。

人生を賭けて挑戦することもある。人生はそう何度もないので、かけがえのないものをかけた挑戦だ。したがって、そこに失敗もある。失敗しても、生きていれば次の挑戦ができるし、挑戦しない人生を選ぶことだってできる。

時間が一方向に流れているために、挑戦した時間を取り戻すことはできない。同じ環境と同じ自分で、同じ挑戦が二度できることはない。

だから、世の中には人生を賭けて挑戦をし、結果、夢破れる人はたくさんいる。しかし、その挑戦が公共の福祉に反しないものであるならば、それを「無謀なことをして愚かだ」と嘲笑する人は下品な人だ。下品な人たちが席巻する社会はいずれ没落する。

「ファイト、たたかう君の歌をたたかわない人が笑うだろう」という歌を聞くと、そんなことが心に浮かぶ。

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誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。