そのテーゼを読んだのは学生時代のことだった。それから、人間に対する見方が大きく変わった。マルクスのフォイエルバッハに関する第6テーゼである。
「人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である」
このテーゼは今日まで私の頭の中で生き続けている。当時、自己は意識している唯一の自己以外に何もないと自然に思い込んでいた。したがって、肉体があり意識がある自己が存在し、それが自己である。しかし、こうすると、自分がなんなのかがわからなくなる。そんなときに出会ったのがこのテーゼである。
マルクスがどのような意図でこのテーゼを書いたのかは問題ではない。それを考えると、マルクス主義者によくあるドグマの沼に落ち込んでしまう。このテーゼだけを切り離して考えても、そのドラスティックな内容に圧倒される。
私という存在は、社会関係の中でしか定義できないと、私はこのテーゼを読み込んだ。それはある意味当たり前でもあった。私は誰の子供であり、私はどの大学の学生であり、どのようなゆうじんがいるなどなど。そういう社会的連関を全て辿れば、間違いなく私というものに出会える。
私の肉体の中に、精神の中に自分を探すのは一面的な私の理解に過ぎない。
マルクスは、資本論においても、彼のいう資本家とは生身の人間ではなく、資本の人格化した存在だと繰り返している。資本とは、それ自体が社会関係の中でのみ存在できているものであり、社会関係そのものであると言っているのに共通している。
このテーゼで目を開かれたのは確かだが、ただ、マルクスと同じ認識ではない。社会関係の中で定義できる人間が本質的だとマルクスは言っているが、私は少し違っている。認識論的に、関係から切り離して、あえて一個の肉体として、精神を内包している肉体として存在している人間もまた本質である。人間とはそういう意味で二重化された存在なのである。
そして、マルクスがいう人間的本質とは、私から言えば人間のアイコン的側面、より明確には記号的側面の本質性を言っている。もう一つ絶対固有の遺伝子をもち、固有の環境の中で育ってきた実態的人間の本質性が素材するのである。人間とはそういう意味での記号と実態の二重化した存在なのである。
その人間の二重性を素直に受け入れることがとても大切だと思っている。
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