気になった文章を最初にリストアップしておく。
「長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。・・・・・・」
「「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』というのは読んだけれども。・・・・あれは君の自叙伝かい?」」
「僕は野蛮な喜びの中に僕には両親もなければ妻子もない、ただ僕のペンから流れ出した命だけであるという気になっていた」
「それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった」
何十年か前にこの「歯車」は読んでいた。しかし、今読み返してみると、多分当時とは随分違った読み方をしていると思う。
かつては、これを一つの創作として、小説として読んだ。しかし、今は著者自身の独白として読んで、素直にそのリアリティを受け入れることができる。創作なのか独白なのかは、評論家的には決着がついているのだろうが、私にはそんなことはどうでもいい。かつては、創作として興味深く読んだが、今は独白として素直に読めるということだ。
もっと端的に言えば、その独白のまた近いところを自分が歩いていることに気づいたということであろう。誰もが、少し歩きかたを変えれば、「歯車」の側に行くことができるのだ。行くとことができるとは変な表現かもしれない。普通には、そちら側に行ってしまうと行ったほうがいいかもしれない。
もちろんここには「芋粥」や「鼻」にあるような芸術的な言葉は見当たらないが、そこには精神のリアリティを表現する言葉が連ねられている。
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