2021年1月20日水曜日

日記を書こうと思った

 全てが、手応えのない存在のように思える。

今、世界はコロナに翻弄されている。私は、閉じこもっている。何かをやろうとするが、物足りなさがつきまとって本気になれない。私の脳に、世界がどう見えているのか、それを表現するための最も良い方法が日記ではないかと思った。

昨日、神戸大学時代の自分の研究関連のファイルを見ていた。その前と、その後と、多くのことを考え、多くのことを表現してきたと思った。でもそれらは全て過去のものだ。今の時代の中に生きている自分が表現すべきものを考えたい。

表現が基本だ。生きているということは表現することと同じだ。どう生きるかは、どう表現するかということだ。表現の媒体は「言葉」なのだ。絵でも音楽でもない。私は言葉で表現したい。言葉で生きたい。その手がかりが日記だと思った。

言葉を選び固定すること、言葉を書くことには時間がかかる。言葉は、心の中にあるものと同じか、それ以上のものを表現する。創造である。創造された表現になっていく。画家が絵を描くこと、音楽家が五線紙に音符をかくことと同じだ。言葉が表現であるならば、言葉は命なのだ。混じり気のない自分を、鮮烈に表現するものは言葉だ。ロゴスなのだ。

全てが、手応えのない存在だとしても、言葉は確かな存在だ。自分以上の存在となる。

明日は出かけよう。

誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。