ネット書房の公開epubサイトから、芥川竜之介の芋粥をダウンロードして読んでいる。
その中に、次のような文章があった。
「人間は、時として、満たされるか満たされないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまふ。その愚を笑うものは、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない」
実現不可能かもしれない夢に、人生を捧げることは笑われるべきことではないという主張であることは直ちにわかる。が、畢竟以下、「人生に対する路傍の人」とはなんだろう。人生をまっとうに歩んでいるのではなく、その傍らにとどまって、人の人生を眺めているだけの人間ということであろうか。もしそうであるならば、夢に人生を捧げる人間に対する最高の敬意を表現しているということになりそうな気がする。
最後まで読んだ。
五位は、芋粥を飽くほど食べられるチャンスを与えられるのだが、結局、それを夢見ていた時を懐かしむ。「飼い主のないムク犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐れむべき、孤独な彼である。しかし同時に、又、芋粥に飽きたいという欲望を、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼である」と。
芋粥を飽くほど食べることは、彼にとっては分相応の夢だったのであろう。しかし、それは、あっけなく実現してしまう。
利仁に悪意はなかったのであろう。あるいは、五位を出しに楽しもうということはあっただろうが、悪意はなかったと思う。又、その舅の有仁にもなかったであろう。
誰が悪いわけでもない。
そこに警句があるとするならば、夢というものの厄介さであろうか。
前日の夜、五位は、夢がすぐに実現することへのためらいを感じている。それが、後悔に変わったということもあるか。
人生において夢を持つことが不可欠であることを述べると同時に、その難しさを書いている。と読むべきなのだろう。
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