2021年1月29日金曜日

芥川竜之介の「羅生門」

 あまりに有名である。

人が、自己の死を避けるために、自己の悪行を合理化する。その連鎖を描いている。「盗人にも三分の理」である。ただそれだけのことか?

下人は、盗人にならなければ、餓死するしかないところまで追い詰められていた。羅生門に登るまでは、良心に従って餓死するか、それを避けるために盗賊になるかという逡巡があった。

したいから髪を抜き取る老婆に出会って、迷いを断ち切り、盗賊になる勇気が与えられる。老婆の上着を盗んだのは、その勇気を確かめる意味だったのだろう。

では、下人は、良心に従って餓死するのが正しかったなどとは誰も言えない。

下人は、失業者だった。そのものを生かす力のない社会こそ悪である。

私が感動した表現を 記録も兼ねて残しておこう。階段の上に上がって、したいの間を動く光を見たときの描写だった。

「これは、その濁った、黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである」

 芥川竜之介の表現力の凄まじさである。言葉が、それを読むものに強烈なイメージを与える。それが、その著作の至る所でお目にかかる、芥川竜之介の神がかり的言葉である。

話は少し外れるが・・・・

二十数年前に起きた、池袋、母子餓死事件を思い出した。当時は、神戸にいた。ショックだった。が、今その池袋近くに住んでいることを不思議に思う。 ふと手元にある当時買った本をパラパラとめくったが、改めて悲しみがこみ上げてくる。

「悲しい日記:天国にいる夫へ」(冒険社、1996年刊)

「羅生門」の電子書籍

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