ふと、名前とはなんだろうか、と考える。
現代社会では、名前の役割は決定的に大きい。
近代以前は、女性が姓を持たなかったなど、名前の役割が今ほど重要ではなかったと考えられる。身分や組織の中での所属や、家族の中での位置が大切で、名前はその次くらいの役割しか与えられなかったのではないかと思う。
映画「千と千尋の神隠し」では、別世界の中で、ちひろは名前の一部を失ってしまう。同時に父母も時間も、彼女の世界も失ってしまう。異次元の世界の中で、彼女の元の名前を維持することはそれほど大切でもないのかもしれない。
全く別な話だが、カフカの「虫」という小説を思い出す。ある朝起きたら、グレゴリーザムザは、虫になっていた。その現実の中で展開することが詳細に、ある意味、リアルに描かれていたと思う。かつてカフカの全集のようなものを持っていたが、今は手元にないが。名前と心は持っていたが、体を失ってしまった悲しい物語だ。
蝴蝶は蝶になったが、また周に戻っている。
前近代では、武士や貴族は、元服した時などに名前を変えていた。それはまた、社会の中でのステータスの変化を示していたものだろう。
歌舞伎町などでは、源氏名というのものある。芸名というのもある。人はその役割を変える時、別な名を持つ。ある意味それは不自然ではないことなのだろう。
私も一応「わっしー教授」という芸名を持っている。この名前を使う限り、私は芸人となる。
「名を捨てて実を取る」という言葉がある。この言葉を見る限り、名前は、仮想的で、形式的なものでしかないことのようだ。この場合の名は、この場合の名は辞書的には、「名誉や名声などうわべの体裁」 らしい。ということは逆に名前というのがそのような側面を持っていることを意味している。
ある人から、単に名前を奪ったり消したとしても、実体としてのその人は少しも変わっていないように思う。
だが本当にそうだろうか。名前を奪うとどうしようもの無くなるので、突然名前が自分の知らない名前に変わってしまったらどうなるだろうかと考える。自らが意識する名前と、社会がその人間に帰属させる名前が異なってしまったらどうなるだろうかということだ。
社会は少しも混乱しないだろう。元々その人はその名を持ったその日だだからである。しかし、本人は大いに戸惑うだろう。 おそらく、自分がなんだかわからなくなるだろう。彼は自分の内側にあるものはまちがいなく認識している。しかし、社会との関係は全て名前を媒介にしているからだ。
そこにも、内側と外側という問題がある。内と外をつなぐものが名前なのだ。内側に見えている自分以外の人間との関係がわからなくなってしまうのではないか。