2021年1月29日金曜日

芥川竜之介の「或社会主義者」

 「彼」が社会主義者であることを信じながら、資本主義社会を登りつめていったということは、彼の抱いていた社会主義が、少なくとも彼にとっては、せいぜい、一つの玩具のようなものに過ぎなかったことを表している。

「私」は自由主義者になった。かつて共同社会の理想を語っていた頃は、自由主義の持つ汚らしい部分が許せなかった。が、あえてその醜さを飲み込んだとしても、自由というものの持つ力、限りない創造性を信じるようになった。

「彼」の書いた論文が、また次の世代の若者の情熱に共振したとしても、それは彼の責任ではない。

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誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。