「彼」が社会主義者であることを信じながら、資本主義社会を登りつめていったということは、彼の抱いていた社会主義が、少なくとも彼にとっては、せいぜい、一つの玩具のようなものに過ぎなかったことを表している。
「私」は自由主義者になった。かつて共同社会の理想を語っていた頃は、自由主義の持つ汚らしい部分が許せなかった。が、あえてその醜さを飲み込んだとしても、自由というものの持つ力、限りない創造性を信じるようになった。
「彼」の書いた論文が、また次の世代の若者の情熱に共振したとしても、それは彼の責任ではない。
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