2021年3月30日火曜日

死と共に生きる

 59歳の3月、三本あるうちの真ん中の一番太い冠動脈の根っこを100%つまらせた心筋梗塞になった。人生最大の胸の痛みに直面したのは、午前10時過ぎ自転車で移動していた時で、近所の大学病院に向かおうと思ったが、どうにもならずに途中の散髪屋さんに駆け込んで救急車を呼んだ。そのままだと死ぬところだったが、運ばれた病院で詰まった血栓を取り終えステントを入れて血流を回復させたのがお昼過ぎだった。辛うじて生き残った。心臓は結構な範囲死んでしまっている。まあ、心臓は通常生活を維持するのに必要な能力の10倍の能力を持っているという話で、数十%が死んでも大丈夫みたいだ。体を動かすのになんの不自由もなく、走ることもできるし、ほぼ普通に生活している。あれから7年。

 64歳の9月に今度は脳梗塞になった。その日は台風の通過する日で、朝の4時ごろ目覚めてしまって、なんやかやと机のパソコンに向かっていた。が、途中から意識がおかしくなった。キードーを変に動かそうをしている。よくよく気づくと、右半身が正常に動かない。起きあがろうとして、机の横にばったりと倒れてしまった。右手右足が動かないから、当然そうなる。家族を呼ぶ元気はあったみたいで、救急車がやってきた。不思議なことに、救急隊員が来ることには、なんだか普通になっている。特に治療らしい治療はしなかったが、色々検査をして、脳梗塞であったことは間違いないようで、一部壊れた脳の様子を写したMRI画像が私のスマホには入っている。こちらも、そのご、大学の講義も、研究も、日常生活も普通にやれているので、深刻な事態にはならなかった。あれから1年半。

悪運が強いのか、どうかはわからない。ただ、はっきりと意識していることは、私はいつ死ぬかもわからないということだ。いつも、死神が隣に歩いている、死神が私の肩をいつでも叩ける近くにいながら歩いている、という気持ちで生きている。日々、死ぬことを前提に生きている。明日死ぬとしたら、今日の生き方は後悔のない生き方かどうかを常に自らに問いかけながら生きている。何年も先を生きてたいと思うし、あれやこれや夢想することもあるが、当面日々の生き方が大事だと思い続けている。

おそらく神様は、「お前の生き散らかした人生をすこしなんと片付けてからにしろ」と言っているのだと思う。振り返ってみれば、いろんなことをやってきた。それもあるが、一番中心の研究でも、やりっぱなしの研究、書きっぱなしの原稿がたくさんある。差し当たってそれらをきちんと整理しなければならない。 

人が死んでも魂は生き残るという話はここに書いた。生き残った魂は、自分の今の魂のクローンである。そのクローンの魂は、生き続けるだろう。生き続けるというのは、私が死んでからも形を変えたり、成長したり、堕落したり、七転八倒しながら生き続けていくということだ。だから、そのクローンの魂が、生きやすい環境を、私が生きている間になんとか作れないかと思う。それは、半分クローンの子供たちや四分の1クローンの孫たちが生きやすい社会であってほしいという願いに、どこか共通しているものだ。魂のクローンのために、今何をしなければならないかを考える。

私は座して死を待つような生き方をしたくない。常に緊張の中に身を置きながら、何かに挑戦しながら生きていたい。挑戦とは激しく行動することをかならずしも意味しない。成功が約束されない努力をすることだ。集中することだ。そういう気持ちで時間を最後まで過ごしていきたい。

2021年3月27日土曜日

挑戦する人々

 成功を保証されていることは挑戦の対象にはなり得ない。失敗するかもしれないことをあえてやることを挑戦というのだから。

人生を賭けて挑戦することもある。人生はそう何度もないので、かけがえのないものをかけた挑戦だ。したがって、そこに失敗もある。失敗しても、生きていれば次の挑戦ができるし、挑戦しない人生を選ぶことだってできる。

時間が一方向に流れているために、挑戦した時間を取り戻すことはできない。同じ環境と同じ自分で、同じ挑戦が二度できることはない。

だから、世の中には人生を賭けて挑戦をし、結果、夢破れる人はたくさんいる。しかし、その挑戦が公共の福祉に反しないものであるならば、それを「無謀なことをして愚かだ」と嘲笑する人は下品な人だ。下品な人たちが席巻する社会はいずれ没落する。

「ファイト、たたかう君の歌をたたかわない人が笑うだろう」という歌を聞くと、そんなことが心に浮かぶ。

生き残る魂

 人の肉体は死んでも魂は生き残る。宗教的な霊魂の話をしているのではない。ここでいう魂とは、人の心といっても良いが、心というものの定義がまた複雑になる。私のいう魂とは、その人に対する他者に共有されている思いであり、それらの共鳴である。だから、実体あるもので、幽霊ではない。

したがって、そんな魂は死んだのちには不変なものになるかというと、そうではなく変化し、また生き続けると思う。私の心にも、多くの死んだものたちの魂が生きている。

生き残っているものにとっての魂は、それはあるだろうが、死ぬ側にとっては無駄な議論だと思うかもしれない。しかし、例えば仮に私の完全なクローンがいて、そちらは私の死後も生き残ったとする。一見、ああ、自分が生き残っていると思うかもしれないが、死ぬ側の私にとっては、死という事実から逃れるわけではない。それでも、私は私の死後も生き続けるなどという言い方ができなくもない。魂も同じだ。そのような意味で、クローンが生き残るのと同じである。肉体の死によって全てがこの世界から消失してしまうわけではない。

死者を理解することは、その魂を理解することだ。

2021年3月26日金曜日

論文「社会システムと個人(草稿)」

 個人の合目的的行動が社会全体として一つの全体的構造を形成することを、天潤なモデルのシミュレーションで示した。それによる社会のアクティビティの変化、個人の格差のジニ係数による測定などの閣下を示している。まだ、草稿ですので、文言の誤り、内容的誤り等多々あるかと思いますが、ご指摘いただければ幸いです。以下から自由にダウンロードできます。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

ダウンロード

シミュレーションの動画は以下のyoutubeチャンネルでご覧になれます。

https://youtu.be/QWbOep92ZlY 

 

なお、使用したJAVAプログラムについては、こちらの記事に、ダウンロード方法をお知らせしています。 

2021年3月24日水曜日

論文「社会システムと個人」で使用したJAVAプログラム

 現在書いていて、近日中に描き終わると思うが、論文「社会システムと個人」の中で使用しているプログラムをダウンロードできるようにしました。プログラムソースのファイルは、JAVAの開発ツールである Netbeans用のものです。zipファイルを回答して、netbeansからひらけば、ソースを確認できます。プログラムの中で、データフォルダが異なっているので、OSごとに変更が必要です。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

ソースのダウンロード

JAVAの実行ファイル(非推奨)。jarファイルで、javaが使える環境であれば、OSに依存せず実行できるはずです。ただし、データフォルダの変更がプログラムの中でしかできないので、OSによってはえらーになります。また、数字やグラフなどの表示位置がズレる可能性はあります。zipファイルを解凍し、フォルダーの構造を変更しないようにしてください。そして、SocioPersonal.1.5.jar ファイルをダブルクリックするか、それで起動しない場合は、OS付属のターミナルソフトをひらいて、

java -jar SocioPersonal.1.5.jar

とjavaコマンドを打ってください。

jar実行ファイルのダウンロード

ついでに、シミュレーション結果の解析プログラムもnetbeansソースの形で提供しておきます。シミュレーション後に、ジニ係数をサイクルごとの変化を追いながら計算できます。

分析ツールのダウンロード

以上のすべてのプログラムについては、まくまでも、自己責任での使用をお願いします。

2021年3月20日土曜日

Ubuntuのディスプレイ設定

 1時間無駄にした。

LinuxはUbuntuで使っているのだが、昼めしが終わって起動したら、ディスプレイの解像度が極端に落ちていた。

グラフックボードは Gforce GTX 1050なのだが、

$ nvidia-smi

とやっても、グラフィックボードが見つからないと言われる。ドライバがおかしいかと思ったが、

https://qiita.com/bohemian916/items/7637b9b0b3494f447c03

ここをみたら、カーネルのバージョンアップに伴って、グラフィックボードを認識しなかった可能性があることがわかった。ほぼこの通りにやったら、元通り正常に表示するようになった。

 具体的には、Ubuntu起動時のGRUBメニューを一瞬(5秒)表示させるようにしているので、そのときに通常起動ではなくAdvanced Optionを選択し、その後表示する起動オプションで、一つ前のカーネルを選択するともとに戻る。あとは、上記サイトにある、GRUBの設定ファイルを書き換えて、自動的に旧バージョンが選択されるようにすれば、もとに戻るわけである。GRUBメニューの表示はやめようかと思ったが、表示させるようにしておいてよかった。面倒を一つ省くことができた。

なお、 私の場合は、

  Ubuntu, with Linux 5.4.0-67-generic

Ubuntu, with Linux 5.4.0-66-generic

Ubuntu, with Linux 5.4.0-65-generic

の3つがあって、2つ目のカーネルに戻したら治った。二度とこの問題では無駄な時間を使いたくないので。ここに書いておく。 


 

2021年3月19日金曜日

社会と個人

人間は社会的動物であるとはよく聞くフレーズである。確かに、動物の中には生殖活動以外は、ほぼ単独で生きている動物もいるので、その対比から出てきている言葉だろう。蟻や蜂なども階層のある社会を形成して群集の存続と拡大を図っている動物のように見える。人間にとっての社会は、複雑なことは間違いないが、人々は身近にそれを感じるので、あえて社会とは何かなどという問いを発しなければならない状況はあまりない。社会とは何かをさほど知らなくても、あるいは考えなくても、生きるのに不自由はないのである。もちろん、人間の社会にはルールや慣習があり、それをある程度守ることは条件だが、人間の社会は単に肉体的に育てるだけではなく、教育というプロセスがあり、その中で誰もが必要最小限のルールや慣習を身につけることができるようになっている。

古典的経済学が示したように、人間の社会は分業が発達し、身近なものが地球規模での距離を持った場所での生産に条件づけられていることもしばしばである。われわれの生活必需品そのものが、個人の領域を離れ、広大な社会的空間の中で生産されているのである。人間が社会を必要としているのは、それほど身近なところで確認することができる。あるいは、メディアが発達し、テレビであろうがインターネット経由であろうが、世界の出来事をテレビ、スマホやパソコンで確認することができて、世界的規模での人とのつながりを実感することが可能である。

社会とは何かという問いをあえて発したとして、まずあるべき問いは、なぜこの社会はある程度の秩序を維持できるのだろうかではないだろうか。秩序とは何かということが問題になるが、それは、人間が共通に確認できるあるべき状況の図式の中に、対象が、したがって現実が収まっていることを指すのだが、具体的に言えば、規定されているルールや社会的規範、慣習に沿って人々が行動していることだろう。それはまた、法律や行政制度によって規定されていて、それに反する行為が国家の権力によって罰せられることになっている。国家がなぜこのような力を持っているのかは、それを持たせようという人々の了解があるのであり、それはまた、人々が持っている力の一部を国家に譲り渡すことによって国家は権力、それは警察や軍隊などの強力装置を手にすることができているのである。そのような社会が、社会として機能できている理由を知ることはそれほど難解なことではない。中学の教科書に出ている程度のことを学べば分かることである。

しかしそこに出てくる社会というのは、構造化した社会のことである。構造化した社会というのは、より包括的な表現として、システム化した社会といってもいい。したがって、それは、本来人間が自然な状態で生まれる、非構造的な社会というものを隠してしまっている。

システム化した社会のことを社会システムと呼ぶことにしよう。社会と社会システムを区別するのである。社会システムは社会の中に含まれるのであるが、構造を保有する社会のことである。蟻やハチもまた社会を形成しているというよりも、社会システムを形成していると言ってよいのだが、あるいは単独行動を主体にした動物は、あるいみ社会は持っているが社会システムは形成しないと表現したほうが妥当である。あらゆる動物は、プリミディブなものであれ精緻化されたものであれ、社会を形成するのであるが、その一部が構造化した社会、社会システムを形成すると考えたほうが動物集団の認識がより鮮明になるはずだ。

すなわち、社会とは何かという問いは、社会と社会システムの違いは何かを明確にすることによって答えることができる問いになるのである。

社会システムとは何かを考えるときに、まずシステムとは何かを確認する必要がある。システムは全体的目的を持ち、各部分がそれぞれの目的を持ちながら、全体目的によって秩序づけられて存在するものである。ただ、目的という言葉があることによって、意思を持った存在でなければならないように見えてしまうが、ここでいう目的とは、その全体を動かす中心的な動因のことであり、意思あるもの意思なきものを問わず存在しうるものとして考えるべきだ。

たとえば、太陽系も一つのシステムである。そこに意思があるものではなく、太陽を中心に構造化された存在がある。惑星があり衛星があるが、物理的な法則で表現される秩序に基づいて部分は規則化された動きをしている。代用がその動員としての目的性を持っているものではあるが、各惑星もまたそれぞれみづからの目的性としての動因を持っている。そこには極めて原始的なシステムの姿を見ることができる。また、太陽も銀河系の一部を形成していて、より大きなシステムの部分をなしている。その銀河系もまた、より広大な宇宙の中で法則化された動きをしているのである。それらは巨大なシステムであるが、もっと身近に、全ての生命もまた、生命としての持続、首都拡大等を目的因として持ちながら一つのシステムを形成している。時計もまた時間を示すという目的を持つシステムである。コンピュータもスマホも、あえてその目的を記述するまでもなく、全てシステムである。

システムを見る上では、構造としての全体と部分の関係性が本質的な重要性を持っている。システムにおいては、全体から切り離されて部分は存在せず、部分なき全体も存在しない。また、部分が全体化し、全体が部分化する相互転移がそこにはある。このようなシステムのあり方は、この宇宙にあるすべてのものの存在様式であるとも言える。ウパニシャド哲学が、アートマンとブラフマンという、宇宙の根本的存在様式を語っているのも、そのためであると思われる。したがってまた、この部分と全体によって構成されたシステム、全体目的を内在させたシステムという図式は、われわれの認識方法の原点でもある。ただし、科学は、機能的な方法によって、部分から全体を推測し、また演繹的に全体から部分を把握しようとするが、それらはぞれぞれ一面的な認識を与えるだけであり、システムの普遍的な認識に至る手法では必ずしもない。

システムをこのようなものとして捉えることを前提に、再び社会と社会システムの問題に立ち返ろう。

現代が極めて複雑化した社会システムを形成していることは間違いない。あらためて、システム化していることを問うまでもなく様々な全体目的がそこに嵌め込まれていることは明らかである。たとえば、経済的な面を見れば、経済成長という一つの目的がかなり鮮明に嵌め込まれている。それは個々人が、経済的に豊かになるとか、一つ一つの企業がしっかりと利潤を生み出すとかいう、個別目的を含みながらも、それらを超えた全体的な目的性として支配的な経済的動因になっているのである。さらに、経済以外の領域において、たとえば政治的なシステムもまた、この社会に組み込まれている。国家が、やや複雑な形を持っているが、全体目的を持っていることは明らかだろう。その分権化された地方や、階層的な政治権力機構がそれぞれ部分目的を持ち、さらには、個人そのものが一つの政治の単位として機能している。これら経済や政治だけではなく、思想や文化やコミュニケーションの側面でも社会は一つのシステム化した構造を持っているのである。

目の前に存在する人の社会は、社会システムであるが、それは人の社会が全てシステム化してたものであったということではない。人間がシステム化した社会を持つようになったのは、数千年の歴史しか持たず、数百万年の人類の歴史の中では、ごく最近のことと言わざるを得ないのである。

日本の歴史で言えば、一万年近い存在期間を持つ縄文時代は、基本的に採取狩猟社会で、そのほとんどの期間に明確にシステム化した社会を持たなかった。青森の三内丸山遺跡などをみれば、成熟した縄文文化にシステム化した時や場所がないなどとは断言できないが、小規模な家族を単位に成立している縄文社会にシステムがあったとは言えない。家族やその延長線上の部族には、その存続という全体目的が成立していたと考えるべきだが、それは社会としての全体とは言えないものである。日本に社会システムが成立したのは、灌漑水稲農耕が支配的となった弥生時代以降である。その全体を代表する人が現れ、集団はより多くの水稲生産物剰余を手にするために社会は激しく争うようになり、社会の統語化を進め、また社会システムを形成していったのである。

縄文時代に形成された社会システムは、まさに現代にまで継続しているが、この社会システムの根底に、抽象的ではあるが、システム化する前も存在していた平面的な相互関係を持った社会が、抽象的な形ではあるが存在しているのは間違いない。家族や地域共同体などのかたちで、原始的な社会は今でも生き残っている。全体性を持たない分散化した比較的単純な社会と明確な全体性を持ったシステム化した社会が二重化して存在しているとみなすことによって、我々の社会の実像により迫ることができる。

社会をシステムとして見る見方はなぜ必要なのであろうか。もちろんそれはわれわれの社会に対する正しい認識を得るためであるが、またそれは、学校教育の中で刷り込まれた形式的知識の限界を自覚するためであるが、ここでは個人というものの責任の限界を理解するために重要だと強調したいのである。

わたしたちは、自身、十全であると考えている。自分の行動や言葉を自分自身の意思として行為していると思っている。もしそうでないならば、私たちは別な何かの力によって自らの意思でもない行為や言葉を実行しているということになるが、病気でもない限り、普通それは誰でも否定するだろう。確かに人は自らの意思に基づいて自らの言動を律しているのであるが、私たち自身が社会の構成要因として、この社会システムの目的のもとに、意識するかしないかに関わらず行動している側面を必ず持っているのである。私たちの日々の言動は、釈迦関係の中で行われる限り、この社会のルールや慣習を踏まえなければならない。それは社会というよりも、この社会システムが私たちに強制しているものであり、私たちは自らの意思に基づいてそれを受け入れているのであるが、それはただ私たちがこの社会システムに従順であることを意味しているものなのである。

芥川龍之介の小説には、河童の世界を描いたものがあるが、そのなかで河童の分娩では生まれてくる子供に河童の社会に生まれてきたいかどうかを事前に問うというシーンがある。生まれることを拒否することができるのであり、生まれる限りはその社会のルールに従うという了解があることになる。人間は、選択の余地なくそこに生まれてくるものであり、社会規範を受け入れることは了解なく強制されているものである。もしそれがただの社会であるならば、人間として生まれることと社会に属することはほぼ同値的現象なのであるが、社会システムとなると、それは人間によって二次的に作られたものであり、人であるならば受け入れることは当然のこととは言えないはずである。

人間は自己十全なものではなく、また人は自らを作り上げるのではなく、なによりも社会システムによって作られるものである。


高校までの教育は、基本的に国家によって統制されたものである。国民は教育を受ける権利もあるが、それはまた義務でもある。国家にとっては教育を与える義務でもあるが、国家の教育権を行使しているとも間違いなく言える。もちろん、国家が人を教育すること、すなわち社会システムが人を作るものであったとしても、それは望ましくないということではない。この社会システムが維持されている限り必要なことであり、人々は国家による教育を受け入れているのであり、それは国民の教育を受ける権利を、国家が認めているという形を取る。大陸的自由主義の伝統に則って、社会は社会システムを選ぶ権利、それは一つの社会の有する自由として持っている。しかし、個人に社会システムを選択する権利はない。したがって、この社会システムを受け入れざるを得ないのである。


社会システムが人を教育し、実地に訓練し、人間を作るとしても、画一的なロボットのような人間を作るわけではない。人間には個性的な実態があり、それは遺伝的多様性と環境的多様性に支えられている個性である。この多様性は国家の教育によって消せるものではない。人間の多様で構成的人格は、国家、社会して無による人づくりの烙印を色濃く帯びながらも、確実に残っていく。


記号としての人間:徹底した記号化の時代の中で

 インターネットが世界の人々の日常の中にしっかりと根付いた時代になった。多くの人がSNSのアカウントを持っている。SNSごとにアカウントを持ち、あるいは同一のSNSの中に複数のアカウントを持つこともありふれている。アカウントにはIDがありそのIDとアカウントはパスワードによって本人性が確保されている。アカウントの名前がIDとは別の場合もあるが、同じ時もある。どちらもアカウント名と呼ぼう。

私特殊なことかもしれないが、私は他にも、アマチュア無線局を運用していてそのコールサインもある。また、インターネットのドメインも運用していて(ex. washida.net)それもひとつのIDであり、名前である。

タレントや芸人などにはまたその世界で通用する名前を戸籍とは別に持っていることもあるだろうし、作家はペンネームを持っていて戸籍名と異なる場合がしばしばある。

これらの名前の全ては記号である。SNSのアカウント名が記号であるというのはわかりやすい。実際アルファベットとや数字の簡単な組み合わせになっているだろうからである。芸名もそれはアルファベットではないかもしれないが、記号である。ペンネームもまた記号である。

そして、さらには、われわれの戸籍名も記号である。戸籍名は、漢字やひらがななどを使っているので、記号らしくないかもしれないが、外国の場合アルファベットなので、そう考えるといくら漢字やひらがなで書かれていても、戸籍名記号であることは間違い無いだろう。

それでは、記号とは実体を短く象徴し代表するものである。記号のほかに実態が存在するのである。記号はアプリのアイコンのようにもおもえるが、それよりも確かな存在である。

人間は記号を背負って生きている。社会は全ての人間に少なくとも一つの記号を与える。戸籍名である。戸籍の名前の方は親などがつけるが、それは必ず役所に届けなければならず、そのときに社会に認知された名前、すなわち記号となる。戸籍名は社会によって強制的に与えられた記号なのである。

一方実体とは、その記号が代表している物理的存在、あるいは肉体的精神的存在である。

テレビドラマではよく記憶喪失者の話が出てくる。船で遭難して、記憶喪失になって知らない街にたどり着く。本人も周りもそのものの名前は知らない。したがって、記号を失った人間になってしまうのである。そのとき、その人と認識しうるものが全て実体である。名前を失った、記号を失った人間の実体である。

記憶喪失者の例で明らかなように、記号を失った人間は誰だかわからなくなってしまうのである。自分も自分がわからないし、周りもそれが誰だかわからなくなる。しかし、実体としての自分は記号を失って、記号に対する記憶を失ったとしても、認識可能である。

人は記号としての自己を認識することもできるし、実体としての自分を認識することもできるわけである。

人間以外の生物でも、一種の記号化に似た現象はある。コロニーで群れの中にいる自分の子供を匂いや鳴き声で区別できる動物は少なくない。しかしそれらは識別子としての記号であり、社会関係の中で機能する象徴としての記号ではない。人間の記号は社会関係の中のシンボルである。

その人間の社会関係は全て記号に結びつけられているのであって、当然実体としての肉体及び精神に結び付けられているのではない。

人間は記号を背負うことによって、曖昧さなく自己を意識させられる。しかし、もともと自己というのははっきりしない存在なのである。

あらためて「自分とは何か?」を問うて見る。一見、これほど馬鹿馬鹿しいと言わないように思える。自分とは何かと問われたとき、「自分は自分だ」とか、「自分は〇〇だ」と名前を答えることもあるかもしれない。自分は自分にとって自明の存在だと、誰もが思っている。思わないとまともに生きていけないと思える。しかし、自分にとって自分とはそれほど鮮明に理解しうるものだろうか。

たとえば、「自分のことはいくらよくわかっている」と言っても、病気になったとき、どのような病気であるかを即座に理解できない場合も多々ある。風邪くらいならば、わかるかもしれない。しかし大概は、医者から何の病気であるかを教えてもらうのである。自分の実態としての肉体をそれほど私たちは理解できないでいる。理解しないままに、何十年も私たちは肉体と精神を使用し続けるのである。まさにそれができるように肉体は作られている。自分を理解しなくても自分を維持できるようになっているのである。人間はロボットのように作られたものではない。途方もない時間をかけて、生命の進化を丹念に辿って、紆余曲折しながら人間は作られてきたし、その時速のためのソフトウエアを体内に、遺伝子の中に溜め込んできたのである。だから、自分というものをそう簡単に理解できるものではない。私たちが「自分のことはよくわかっている」というのは、「自分と他者、自分と環境の境界をよく理解し区別できる」という表現に変えると正確だ。あらゆる生命は、自己と他者あるいは環境の区別をする能力を持っている存在だからである。人は自分の内実を知っているというよりも境界を知っているのである。

粗に自分という存在の曖昧性は、生まれたばかりの自分は、単なる遺伝子の発現した物質でしかないということにも現れている。生まれる瞬間の自分を意識している人間はどこにもいない。生まれたとき、自分というのはそこに存在していなかったのである。その遺伝の発現した物質でしかない肉体は、栄養を保持し適切な環境を与えれば、いつか成人する。たとえ、そこに自分という明確な意識を持たなかったとしても、肉体的な実態は形成されるのである。だから、大人になって私たちが自分を意識しているときの肉体は、本来自分のものではなく、遺伝子が発現した物質が環境との相互関係の中で形成された物理的存在に過ぎないものである。

自分は、この遺伝の発現した物質が、他者や環境との境界を意識するようになったときに、その区別をしたこちら側の存在を自分を意識するようになっただけである。

すなわち、自分が自分を作り上げてきたというのは本質的に誤解であり、自分というものの中から、遺伝子の発現した物質という側面と、教育も含めた環境との相互関係が作り上げてきた側面を除くと、そこに自分という存在の余地はほとんどなくなってしまうのである。たとえば、受験勉強を必死でやって大学に合格したという場合、その努力をやったのは自分であり、大学に合格したのは自分の成果だというのは、一つの表現としては正しいが、その努力しようとした自分もまた、遺伝子の発現と環境との相互作用の中から生まれたものに過ぎないと言える。

われわれが自分と思っているものは、玉ねぎみたいなもので、遺伝子の発現と環境の作用だから自分と言われるものはないという形で、一つひとつ剥いていけば自分固有のものは何も無くなってしまうのである。

たとえそうであっても、自分は困るものではない。困るのは社会である。社会は、どうしても区別された個人でなければならず、社会の中で責任ある主体でなければならないのである。

わかりやすい例で言えば、犯罪がある。犯罪は、社会を維持するために誰もが守るべきルールを守らなかった罪である。とうぜん、それを犯した個人に責任がある。しかし、もしその個人が、自分は全て遺伝子が発現し、環境との作用で作られてきたもので、遺伝子と環境に責任があるから、犯罪は遺伝子と環境のせいだと言って、それが認められたらどうなるだろう。それはどう見ても正しい命題だが、それを認められば、この社会が成り立たなくなってしまう。

だから、個人は必ず責任ある主体でなければならず、それを確実にするために社会は人間に記号を付与し、個体を区別し、その記号を伴う人間に社会に対する責任を要求するのである。

記号としての自分は、社会が社会システムであるために発生するものである。この社会と社会システムの区分については別な論述に場所を譲らなければならない。

人は記号としての自分と実体としての自分に、二重化した自分を生きていかなければならない。記号としての自分だけが自分であると思い込んではならない。それは一面の自分でしかない。実態としての自分もまたかけがえない自分であり、自分の実体としての生が実現した理由を持つ自分であり、その自分を成立させた家族や環境と密接不可分の関係を持った自分であり、また自分の絶対的固有性を支えている基盤としての自分なのである。

インターネットに支配された現代は、人間を徹底的に記号化する時代である。くれぐれも、自己の記号化し多側面だけを自己と錯覚することがないようにしなければならない。

K.マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」

 そのテーゼを読んだのは学生時代のことだった。それから、人間に対する見方が大きく変わった。マルクスのフォイエルバッハに関する第6テーゼである。

 「人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である

このテーゼは今日まで私の頭の中で生き続けている。当時、自己は意識している唯一の自己以外に何もないと自然に思い込んでいた。したがって、肉体があり意識がある自己が存在し、それが自己である。しかし、こうすると、自分がなんなのかがわからなくなる。そんなときに出会ったのがこのテーゼである。

マルクスがどのような意図でこのテーゼを書いたのかは問題ではない。それを考えると、マルクス主義者によくあるドグマの沼に落ち込んでしまう。このテーゼだけを切り離して考えても、そのドラスティックな内容に圧倒される。

私という存在は、社会関係の中でしか定義できないと、私はこのテーゼを読み込んだ。それはある意味当たり前でもあった。私は誰の子供であり、私はどの大学の学生であり、どのようなゆうじんがいるなどなど。そういう社会的連関を全て辿れば、間違いなく私というものに出会える。

私の肉体の中に、精神の中に自分を探すのは一面的な私の理解に過ぎない。

マルクスは、資本論においても、彼のいう資本家とは生身の人間ではなく、資本の人格化した存在だと繰り返している。資本とは、それ自体が社会関係の中でのみ存在できているものであり、社会関係そのものであると言っているのに共通している。

このテーゼで目を開かれたのは確かだが、ただ、マルクスと同じ認識ではない。社会関係の中で定義できる人間が本質的だとマルクスは言っているが、私は少し違っている。認識論的に、関係から切り離して、あえて一個の肉体として、精神を内包している肉体として存在している人間もまた本質である。人間とはそういう意味で二重化された存在なのである。

そして、マルクスがいう人間的本質とは、私から言えば人間のアイコン的側面、より明確には記号的側面の本質性を言っている。もう一つ絶対固有の遺伝子をもち、固有の環境の中で育ってきた実態的人間の本質性が素材するのである。人間とはそういう意味での記号と実態の二重化した存在なのである。

その人間の二重性を素直に受け入れることがとても大切だと思っている。

 

わが家の桜


 昨年初めに芽が出たわがやのさくらも、春になって葉っぱを吹き出した。枝も少しずつ伸びている。

  この桜は、石神井川の歩道に落ちていた、ソメイヨシノの種が発芽したものだ。ソメイヨシノは自己受精しないそうなので、これはソメイヨシノと他の何らかの桜のハーフということになる。だから、どんな花をつけるかはわからない。まだまだ先のことになりそうだ。

枝を切ると花を咲くかせるのが遅れそうなので、伸び放題にするつもりだ。去年は秋まで、二階のいまの窓のところに置いておいた。そこで1メートルの樹高になった。秋になって一階に下ろして駐車場の端に置いておいた。

 今年はこの写真のように、屋上に持ってきて、光をたっぷり受けるようにしてやった。アンテナの横に置いている。

 毎日二、三回見るために屋上に行く。少しずつ枝が伸びていくのが見えて癒されている。

2021年3月18日木曜日

論文「並列交換均衡と格差(草稿)」

並列交換均衡がほぼ自動的に格差を生み出し、さらには貧困の発生の道をつけることをシミュレーションとともに示した。シミュレーションには、2496コアの計算専用グラフィックボードを使用した。プログラムは前の記事にあるように別に公開している。

 まだ、荒削りな草稿で、ろくに誤字脱字も直していないが、急いで次の論文に入らなければならないので、暫定的に公開しておく。誤字脱字、内容について、ご意見、ご批判などあれば是非とも、お聞かせいただきたい。 (Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

  論文草稿ダウンロード

2021年3月16日火曜日

並列交換均衡と格差:プログラムの公開

 現在書いている論文「並列l交換均衡と格差」のなかで、実行に使用したシミュレーションプログラムを公開すると書いている。以下からダウンロードできる。使用に関しては自己責任で行っていただきたい。(Googleからのダウンロードですが、アカウントを持っていなくても、またログインしなくてもダウンロードは出来ます)

プログラムダウンロード

 このプログラムは、NVIDIA製のグラフィックボードで、ある程度のコア数を積んでいることを前提としている。10000人で、財の種類が100種類のモデルの計算を行うために使ったが、モデルの規模が小さければ通常のグラフィックボードで計算できるだろう。CUDAという並列計算用にC++を拡張したキットを用いてコンパイルされなければならない。

私の論文では、TESLA K20という2496コアの計算専用GPGPUでおこなった。通常のグラフィックボードでも実行可能である。

ヘッダーに書いた日付は作成し始めた時期のものになっているが、ほとんどのプログラムはここ1ヶ月内に書き直したものである。

2021年3月5日金曜日

生活保護世帯数の推移

 

生活保護世帯数は、バブル後から現在まで倍以上になっている。近年は、あまりに急激な増加に抑制が働いているのではないか。

中流階級の没落と低所得層の復活

平成30年国民生活基礎調査」の「世帯数の相対度数分布−累積度数分布,年次・所得金額階級別」をグラフ化した。


 これだけでは、どれがどの曲線に対応しているかわからないので、とても醜いが、特徴は、1990年代初頭のバルブ崩壊ののち大きな社会構造の変化が起こっているということである。2008年のリーマンショックによってそれがより固定化したと言える。


わかりやすく3階級に分類した。低所得階級は、バブル前に戻ったが、それは変わらなかったということではない。この図で表示されている期間は33年間あるので、人口は大きく変わっていないとすると、この33年の経済成長の恩恵はこの階級に何ももたらさなかったことになる。それは高額所得階級にほとんど吸い取られてしまっている。そして、中流階級は、持続的に没落している。

高齢化による年金受給者が増加していることは考慮しなければならないが、これらの傾向を覆すほどの影響はないと予想している。

2021年3月4日木曜日

ベーシックインカムの向こう

 昔、自分の子供に「働かざる者食うべからず」と言ったあと、すぐにその間違いに気づき謝った。

どのような状況にあっても、社会は人に、生きるために必要な手段を与えるべきだ。

ベーシックインカムの向こうにある社会は、社会の富をより多く自分のもにしようとする行為が異常に見える社会だ。

K.マルクス『資本論』

五つの大学に勤めてきて、大学を変わるたびに大量の本を捨ててきた。数えてはいないが、数千冊捨てたことになるだろう。それでも、最後の上智大学を辞めても捨てずに、持ち続けた本がいくつかある。そのうちの一つがマルクスの資本論である。

久しぶりに資本論を、引っ越し箱から出してきた。

 

全3巻、5分冊。学生時代に第1巻だけは読んで、その後卒業してから1、2年のうちに3巻全部を読んだ。その後マルクスエンゲルス全集を買って、剰余価値説などを読み、さらに、別巻でその頃出版され始めた資本論草稿集もかなり読んだ(全部はさすがに読めなかった)。

資本論を初めて見たのは、高校時代だった。そのころ長編小説を漁って読んでいたのだが、本屋に行った時に見たこともない長編の本が置かれていた。それが資本論だった。しかし、ノンポリの自分には何が何だか分からなかったが、印象は消えなかった。

1巻を読んでいた学生時代、どうしても分からないところがあったので、大学の経済学の先生に質問に行ったことがある。質問も回答も記憶にないが、学生時代、経済学の先生に質問したのはそれが最初で最後だった。

資本論は偉大な本だ。現代の経済学、私が大学院時代に習った経済学は、この資本論からかなり離れたものだったが、この本は、資本主義社会の本質を描いている。経済現象の説明力はあまりない。それは現代経済学の方がはるかにレベルが高い。しかし、それは説明に過ぎないのだ。社会の本質を描く学問ではない。マルクスの資本論は説明力はないが社会の本質を描写している。学問の目的がそもそも異なっているのだ。

近代の経済学もマルクスの経済学も、どちらも有用なものだ。人が生きていく上で必要とする視座を与えてくれる。

今日の大学の経済学の分野から、マルクスの経済学が失われてしまったのは残念だがやむおえない。マルクスの経済学を研究していた人たちの多くが、現代の経済現象の説明もその枠組みで語れると錯覚していたからだ。マルクスの経済学はそんな風に使われるべきものではないのだから。

誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。