2021年5月19日水曜日

道元『正法眼蔵』、有時の巻、私にとっての有時(ある時)

 この間を読むと、道元が物理学的世界観を持っていたように思えてくる。

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」

時というものが存在していて、その時でみれば全ての現象は時によって存在しているとうことである。世界は時間という次元を持っていて、ある時間でその世界を切れば、世界の全てがその時間の中に存在していると私は解釈した。

「有草有象ともに時なり、時時の時に尽有尽界あるなり」

草など存在している物も、それらの現象もすべてときであり、その時々に全ての世界が存在しているというわけである。

もし、世界を、あるいは宇宙を4次元の中に存在している実態と観ずることができれば、難しい記述ではない。が、私たちは有るときの世界しか見ることができない。すなわち、4次元の世界をある時間で切り取った世界を見ることができるだけで有る。4次元を観じることは困難なのである。

「いはゆる、山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし、われすでにあり、時さるべからず」

つまり、4次元で見ていると、ある時に、山に登っている自分、川を登っている自分は、時が過ぎて消えてしまったわけではなく、その時の自分として確かに存在しているということである。

「時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今がある、これ有時なり」

時というのが過ぎゆくものであろうがなかろうが、ある時に山を登っていた自分にとって、そのある時は今なのだ、というわけである。過去の時は過ぎ去ったものではない、現に存在しているという、4次元的世界観が確固たるものとして語られている。

「要をとりていはく、尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。」

その4次元的ある時は、「私の有時」だというわけである。(訳の増谷氏によると「主体的時間」)。普遍的ある時ではなく、個性的なある時なので有る。ちょっと離れてしまうが、相対論的に同時性というのが難しいという話をふと思い出してしまう。

現に山に登っていた私、河を渡っていた私にとって、その時はある時なのである。そうなると、世界は時のほかに、さらにもう一次元持っていることになる。つまり、誰にとっての「ある時」なのかという次元で有る。5次元の世界なのである。

「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば、山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。」

山や海も永遠普遍のものとしてそこに存在しているわけではない。変わらないかのようでありながら、永遠の存在ではないのだ。やはり時の中に存在していて、時がくれば山も失われ、海も失われる。さらに、時がなくなれば山や海も壊れてしまう。時間という次元が指定されないところで、山や海は存在を確保できないと、私は解釈した。

これらの規定を、道元は悟りへの道の問題として語っているように思えるが、私は死生観として捉えておきたい。人はある時において確かに存在している。その事実は、人が経年的時間の変化の中で死んでしまったとしても、ある時にその人は確かに生きているのである。われわれの視野の狭い、今という限られた時間に拘束された存在だから、死が消滅のように見えるだけである。人は死してもなおこの4次元的世界の中で存在している。私たちには確かなものとして観想、あるいは体験できないだけである。それは物理的事実、宇宙的事実なのである。


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