「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとはおもはず、春の夏となるとはいわぬなり」
「くらゐなり」とは「ありよう」と訳されている(以下訳は全て講談社文庫のものに依存している)。頭の死と生に関しての言葉は、後半の冬と春の例えから類推できる。冬が春になったとは誰も思わない。それはうつろう現象の違いに過ぎない。より本質的なものが冬と春との共通なものとして存在し、それが時間的に移ろっているだけだと誰もが思う。それは季節という言葉で簡略に表現できるが、そう単純なものではない。
生と死も同じものだと道元は言う。生が死に変わったのではない。死は死であり生は生である。この前の文章で、死と生がそれぞれ閉じたものだと、薪と灰を例にして語られている。死は生には変わらないと。しかし、生と死は、連続的なものであることは誰でも理解できる。ということは、その間に変わらぬ何かが存在しているのである。
私が大事であると思えることは、生と死の間に、連続的な本質が存在するとするならば、死とは無ではないということである。そこには、生と共通の何かが存在しているのである。私たちが死というものの中には、客観的な実在があるのだ。その生と死を貫く実在こそ、私たちが注目すべきことなのである。
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