2021年5月19日水曜日

道元『正法眼蔵』、現成公案の巻、自己と他己

「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落しむるなり」

道元の思想の中でも最も大事な言葉の一つだろう。

私は特に「他己の心身をして脱落しむる」という言葉が気になる。自己以外のものとしての他者の中にある自分をも脱落させるということだ。自己へのこだわり、あるいは自我、自意識を脱落するというのは、それだけでも極めて困難なことだと思うが、なんとなくイメージはできる。確かに、それが悟りになっていくかもしれないとは思う。しかし、他者の中にある自己を捨てるというのは、たとえ自己が死んだとしてもできそうにない。

他者にとってもなんら存在感のない自己になるということだろうか。その他者が社会であれば、おそらく不可能だ。その他者は世界でもあり、さらに極端なところを見れば、宇宙でもある。そこから自らが存在しないかのように消し去ることなどできそうにない。そのできそうもないことをあえてすることが悟りということだろうか。

そうなると、私流に解釈して仕舞えば、自己を理解するというのは、そのままの自己だけでは理解できず、人間の存在は、自己と他己の二重化したものであり、道元のいう悟りとは二重化した存在としての人間を脱落させることだ。しかし、私にとってはそのような脱落というのはなんら人間理解の上で大切なことではなく、自己と他己の二重化した存在が、生まれ出ること、生によって二重化が洗練されていくこと、そしてまた、死によって完成させられるという事実が大事なことなのだ。

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