「正法眼蔵随聞記」で、最も印象に残ったのは、第5−2節だ。山崎氏の訳で引用させていただく。
「仏道を学ぶものが第一の心がけとすべきは、まず、我見を離れることである。我見を離れるというのは、この身に執着してはいけないということである。」
仏道を学んでいるわけではないが、まず、定義の問題である。ただ、こうくると、3−21にある「道を得るとは、まさしく体で持って得るのだ」というこれもまた印象深い言葉との関係が気になるが、まず、そこはここでは論じないでおこう。
「このからだは、すべてこれ、ことごとく、父の白い体液と母の赤い体液との二つの体液の雫から生まれたものにすぎず、最後の一息で生を終われば、四大は山谷に離散して泥土に帰してしまうものなのだ」
リアリティを感じる。
「なんの故に、この身に執着するのか。この身に執着する理由はあろうはずがないのだ」
論理は飛躍している。永遠ではないから執着の価値はないのか。人は永遠なものに絶対の価値を置かない。桜の花びらのように、ほんのひとときの輝きと儚さに美しさを感じるという面もある。ただ、もし自分を永遠なものにする意思があるものにとっては、この限られた肉体の価値は低いものになるだろう。それは、悟りという形で永遠を手に入れようとする僧にとっては、ほぼ、自明であるのだろうが。
「ましてや、理法によって、これを見れば六根(目耳鼻舌身意の六器官)・六境(色声香味触法)、六識(目耳鼻舌身意の六つの識作用)合わせて十八回の諸要素の離合集散に過ぎぬ。どこにわが身があるとするのか。どこにもありはせぬ。経典による教家の教えと経典による禅門の教えと区別があるにしても、わが身の始まり、その終わり、全て空なるものであって執着することのできぬものだということを、よくよく考えて、これを仏道修行の心得とする点では、全く同じなのだ」
意識も含まれていなかったら、たしかに、それは空に近いものと言えるかもしれない。
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