この随聞記は、道元さんの一貫した思想を伝えていて読みやすく興味深い。といっても、ほとんど講談社学術文庫の山崎氏の訳文で見ているのだが。
色々書きたいことはあるが、すこし気になったところの一つに、6の23の中の次のところがある。
古人は言っている「貧しい人の家の前を、車に乗って通ってはならぬ」と。すなわち、自分は車に乗る身分であっても、貧しい人の前を車で通らぬように慎重にせよ、というのだ。
権力や富を持っても驕るなということである。この節のテーマなのだ。
しかし、結局、奢らないとしようとすることも、我執ではないか。これは富める人、権力のあるものからだけ見ているが、貧しいものにとってはどうだろう。自分の貧しい家の前を、華やかな車で通る人がいたら、それを妬むというのか。もし権力のある人富める人が、それを誇らずに、貧相に通り過ぎて行ったら、妬まないというのか。これはおかしい。貧しい人が富める人を妬むということが我執である。道元さんは、僧は貧しくなければならないと繰り返し語っている。その貧しさから、豊かな人間を妬むことは決してそうとしてあってはならないと考えているはずである。
豊かで権力のある人が、意図して貧しい人の前を貧相に通り、そうでないところを華やかに通るならば、それは我執を遥かに超えて、醜悪である。そういう人間を私は軽蔑する。どんな人の前を通ろうが同じであれば良い。
私は誰の前でも、権力あるものの前でも、無力な人の前でも、富める人の前でも貧しい人の前でも、素直な自分で、ありたいと思う。その素直な自分を、他の人がどう酷評しようがそれは構わない。また、他者に対しても、私に対して、驕ることも媚びることもなく、素直なその人を見せてほしいと思う。
自分に囚われない、我執を離れるとは、自分らしく振る舞うことが、全く自分へのこだわりからではなくなるということだと思う。まだ、私はそうできているわけではないが。
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