2021年5月18日火曜日

「正法眼蔵随聞記」を読む(1)

 正法眼蔵随聞記を読んだ。読んだというよりざっと全体を見たという方が正しい。

そのなかに、「百尺の竿頭に、さらに一歩を進めてみよ」という古人の言葉が何度か(知る限り三度)引用されている。私流に理解すれば、自我を捨てて大海に飛び込むように身を跳ばせば、悟りへの道が開けてくるということなのだ。

それはそれで道元さんらしい言葉なのだが、悟りへの道ではなくても、つまり、われわれのような凡俗の人生の中でも、何かを掴むために、もし跳び込めば、過去に得たもの全てを失うかもしれないけれども、それをやるということは、一度や二度はあるものだ。

道元さんの意図と違うところは、あえてそうするのは、自我を貫くためであることがしばしばであることだ。

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誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。