人間は、本来、普遍的あるいは宇宙的、さらには世界的また社会的な存在であり、同時に自意識ある主体的、したがってまた魂的な存在である。喜びもまた苦難も、この本源的な二重性が契機となっている。そうなると、死とは、この二重性が相互に独立した存在となることであり、そういう意味では、一つの完成であると言える。死によって完成する人間存在は、また、生の在り方に規定されている。完成した死の形を、人間存在の潜在能力を汲み尽くしたものにするために、その試された生を精一杯、生き抜かなければならない。
誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。
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