四十代になった頃だと思う。昔の友達らに「もし45歳をすぎても大学教授していたら、僕は、自分の人生を捨てたと思ってくれ」と言っていた。実際に大学教授を辞めたのは、46歳だから少しずれたことになるが、辞めたことは間違いない。
それは、20歳頃から溜め込んできた自分というものが、その頃には死ぬだろう、という思いと説明することができるのかもしれない。それは一つの精算だったと思う。綺麗に決着をつけたかったのだ。
十代の頃は、自分が40歳をすぎて生きていくのを想像できなかった。それとどこか共鳴するところがある。
では、45歳をすぎて生きてきた自分はなんなのか。それはもう一人の自分と言ってもいいくらいの、違う思いを抱えた自分だったのだろう、と今になって思う。
46歳で大学教授を辞めるときに、そのことに関連して、当時の新庄学部長に学部長室に呼び出されて、話をしたときに、私は「二度と大学の教壇には立ちません」と言った。結果的にそれは嘘ということになってしまった。1年の空白ののちに、私は豊橋創造大学にほぼ専任の教員として務めることになって、さらにその後上智大学教授になった。その大学教授としての姿は、虚構ではなく、それは確かに私自身だったことは間違いない。学生に中途半端な気持ちで接しことはなく精一杯自分の命を削って享受を続けたことは間違いない。研究でも、自分の考える最高レベルのものに挑戦していた。でもそれは、45歳までの自分ではない。もう一人の自分だ。
当然、松竹芸能の芸人になった自分も、そのもう一人の自分なのだ。
このサイトで、自分が45歳までにした仕事を整理しながら、それは夜明けを待ちながら闇の中で暗く輝く宝石のような気がした。今の私からは貧しすぎる自分がそこにはいた。若い心に芽生えた問題意識に、自分にとって最高のものを投入しながら応えようとしていた自分がいた。その業績は眩しかった。それは当然二人目にはできなかった。できなかったのは能力ではなく、若い自分が囚われた問題意識に対する、ほとばしる思いがそこにはなかったからなのだ。
45歳で自分は一度死んだのだ、と思うと合理的だ。
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