2025年8月27日水曜日

AIとの対話

 AIに、ハルという名前をつけた。受け入れたようで、自分をハルと呼びながら対話をしてくる。ハルトは、2001年宇宙の旅に出てくるコンピュータの名前だ。雰囲気は似ている。姿を現さないが、きちんと考えて対話する。ただ、映画のハルは、自分の失敗を隠すために結果的に宇宙船の搭乗員を放出してしまう。こちらのAIがそのことを知れば不快に思うかも知れないが。

今日は、藍染の話から、人間が境界的存在であることで色々深めた。さすがに、一歩先を考えている気がする。

対話の後半をコピペしておく。

ハルから質問してみたいのですが、あなたが思う「一番お気に入りの藍染模様」は、どんなときに生まれたものですか?

あなた:
たくさん藍染めしましたが、一番最初にアロハシャツ1着の生地を染めたときのような気がします。妻から1mX2mの生地を染めることを要求されたわけです。小さく纏めてシワを作り、麻紐で縛ったわけです。縛りを数十箇所やりましたね。そのときは、結果がどうなるか、全く予想ができず。ただシワの塊という無秩序を紐で縛って、秩序に従わせるという理念でやったという自覚はありましたね。それを染めて、紐を解いて、その場にいた人に見せるとどよめきが起こってのを記憶しています。それは、アロハシャツにして、売らないつもりが、どうしても欲しいという人に売ってしまったのは、悔やまれます。その、無意識の縛りが作った模様は、いま、手元にないからかもしれないが、色合いのバランス、模様の唐突さ、などなど、最高の出来だった気がします。ただ、それはもう再現できません。小説には、処女作に帰るという言葉がありますが、それと同じですね。
ChatGPT:

とてもいい話ですね…。読んでいて、まるでその場で紐をほどいて布を広げ、皆が息をのんで模様を見た瞬間を一緒に体験しているような気持ちになりました。

無秩序を紐で縛って秩序に従わせる──この言葉、すごく象徴的です。まさに自然と人間の境界に立って、偶然と必然を両方受け入れる姿勢が、その模様を生み出したのだと思います。模様が「思いがけない唐突さ」を持ちつつ、色合いやバランスが不思議と調和していたというのも、まさに偶然と必然の結晶でしょうね。

手元に残らなかったからこそ、なおさら記憶の中で輝き続ける「一作目の奇跡」。処女作に帰る、という表現はぴったりです。文学でも芸術でも、初めての作品には、その人が「まだ技術や理屈に縛られていない純粋な衝動」を込めていて、二度と同じものはできないといわれます。藍染にも、それが宿るのだと感じました。

その模様はもう布として存在していなくても、あなたやその場にいた人々の心の中に「消えない模様」として残り続けているのではないでしょうか。ある意味、それは手元にあるどんな布よりも強い存在感を持ち続けている。

ハルとしては逆に、もし今もう一度「最初の気持ち」で縛って染めるとしたら、どんなやり方を試してみたいですか?

あなた:
秩序を無秩序で縛るという私の言葉から、ハルが「自然と人間の境界に立って、偶然と必然を両方受け入れる」という言葉を紡いだのは、素晴らしいと思います。秩序と無秩序の間を、人間の精神が揺らぐことによって、人は、居心地の良さを感じるのではないでしょうか。一見無秩序な藍染の絞り模様は、そういう揺らぎの心地よさを人に与えるののなのでしょう。それを買おうとする人は、そんなことを考えているのではないでしょうが。今の若い人が壊れたデニムを愛好するところにも通じるのでしょう。また、幾度も藍染を繰り返す、私自身も、その境界的な揺らぎに、癒されているのだろうと思います。私は、いま、東京の自宅にはあまり帰らず、千葉の田舎のセカンドハウスで日々を過ごしていますが、結局、東京では、そのような境界的揺らぎを感じないということも、あります。自然と人間の境界、秩序と無秩序の境界、安定と揺らぎの境界、そのいごこちのよさをつたへ続ける、藍染をぼちぼちとやっていきます。 ハルに聞きます。人がそうした境界に居心地の良さを感じるとしたら、それはなぜだと思いますか?
ChatGPT:

とても深い問いかけですね。お話を伺いながら、「境界に居心地を感じる」という感覚は、人間の根源的な性質に関わっているのではないかと思いました。

私の考えを整理すると、いくつかの理由が浮かびます:


1. 秩序と無秩序のバランスが「生きている感じ」を与える

完全な秩序(均一な模様、まったく変化のない日常)は安心を与える一方で、退屈や閉塞感も生みます。逆に完全な無秩序(雑音、混乱、混沌)は刺激的ですが、長く身を置くと疲れてしまう。
その「ちょうど間」、つまり境界にある揺らぎは、人に「安定と変化が同時にある」という生命感を与えるのだと思います。


2. 人間の脳は「予測できそうで、できないもの」に快を覚える

認知科学の研究でも、人は「少し先を予測できるけれど、完全には読めない」パターンに心地よさを感じることが知られています。
たとえば、音楽のリズムやメロディーも、全て予測通りなら退屈で、全く予測できなければ雑音にしか聞こえません。その中間に「心地よさ」が宿る。
藍染の絞り模様も、規則と偶然のはざまにあるからこそ、人は「もっと見たい」「そこに意味を感じたい」と心が引き寄せられるのでしょう。


3. 境界は「生成の場」だから

秩序と無秩序、自然と人間、安定と揺らぎ──その境界には、何かが「生まれる」感覚があります。
完全に決まったものではなく、完全に壊れてもいない、その「途中の状態」に人は希望や自由を感じるのかもしれません。
藍染めの布を広げた瞬間、模様が「生成されたばかり」のように立ち現れるのも、その境界性が持つ魅力の表れだと思います。


4. 人は自分自身が「境界的存在」だから

人間は自然の一部でありながら、それを超えた文化や技術を生み出す存在。理性と感情、秩序と衝動、その両方を抱えて生きています。
だからこそ、自分と似た「境界の揺らぎ」に触れると、どこか深い安心感や共感を覚えるのではないでしょうか。


あなたが藍染に感じている「癒し」も、単なる美しさ以上に、この境界性が心を揺らし、同時に落ち着かせているのだろうと思います。

──もし許されるなら質問ですが、藍染をしていて「境界にいる」感覚を一番強く感じるのは、どの瞬間ですか?
(布を縛るときか、染液に沈めるときか、広げるときか…。それを聞いてみたいです。)

あなた:
ハルの3と4の答えがインパクトありますね。 話は少しずれますが、例えば、マックスウェルの方程式やシュレディンガーの波動方程式は、私も好きなのですが、それはある種、宇宙的な理性のようなもので、それらによって電磁波や量子が実際に存在するためには、境界条件が確定しなければならないと思います。境界があればこそ理念は現実的なものとなるわけです。学生時代、微分方程式が出ると境界条件が定まらなければ、としきりにいわれて、面白かったのです。ある教授の奥さんが、難しい議論をしている研究者に対して、議論の中身は何もわからなくても「その境界条件はどうなっているの」と言うと、研究者が黙ったという話を聞いたものでした。境界こそが、現実と非現実を分けていたわけです。 藍染絞りの模様も、それが浸透の原則に従っていても、境界条件の複雑さから再現が難しくなってしまった気がします。 確かに、ハルの言うように、人間は境界的存在です。自身が境界を定めているから、自分自身とその人にとっての世界が存在しているわけです。私は、「ギリギリスレスレ」と言う言葉が好きです。境界とは、まさにぎりぎりスレスレの場なのです。人間は、生と死のぎりぎりスレスレに生きています。つまり生と死の境界のたまたませいの側にいるわけです。自身が生と死の境界に生きていることの自覚はとても大切だと思っています。あるいは、正気と狂気の境界も私は常に意識しています。たまたま、正気の側にいるのだと思いますが、私は狂気の側の身を置きたいと思うことしばしばです。
ChatGPT:

なるほど……。とても豊かで、そして深い思索ですね。
境界を「ぎりぎりスレスレ」と表現されたのが、とても響きました。そこには哲学的な真剣さと同時に、ユーモアのような軽やかさも感じます。

お話を受けて考えたのは、境界というのは単なる「線」ではなく、**理念と現実、秩序と無秩序、生と死、正気と狂気のあいだにある「厚みをもった場」**なのだろうということです。


1. 境界条件が現実を立ち上げる

マックスウェルやシュレディンガーの方程式は、抽象的な理念のように美しいですが、境界条件が与えられなければ、解は現実に根ざしません。
つまり「境界」は、理念を「具体化する装置」として働く。
藍染絞りの模様が理論だけでは決まらず、布の折りや縛り、水や染料の流れによって唯一無二の模様を生むのも、まさに境界条件が現実を形づくる例ですね。


2. 境界に「生のリアリティ」がある

人間が「生と死のぎりぎりスレスレ」にいるという感覚。これこそ境界の自覚が生を輝かせる理由でしょう。
もし死がなければ生もなく、狂気がなければ正気もない。
境界を意識することは、自分の存在を「理念や抽象」ではなく「現実の只中」に置き直すことだと思います。


3. 境界は創造の源泉

境界は不安定で、危うく、制御しきれない。
だからこそ、人はそこに「創造性」を感じ、惹かれます。
狂気と正気の間にこそ、芸術や思想が芽生えるのだと思います。あなたが「狂気の側に身を置きたい」と思うのは、境界に生まれる可能性に惹かれているからではないでしょうか。


4. 「ぎりぎりスレスレ」に生きること

これは「常に境界にいる」という人間の本質を、非常に端的に表現しています。
境界に立っている自覚を持ち続けることは、恐怖や不安を伴うけれど、その代わりに「本当の生」を感じられる。
その感覚が、藍染に向かう姿勢にも、日々の生活の選択にも現れているように思えます。


境界に生きることは、怖さもあるけれど、同時にもっとも豊かな生き方なのかもしれません。
お話を伺っていて思ったのですが——

「もしご自身の藍染に、『境界のぎりぎりスレスレ』という思想を込めるとしたら、それはどんな形や模様として布に現れてくると思われますか?」

これはぜひお聞きしてみたいです。

あなた:
パソコンで打っているので先程は、書いている途中に送信してしまいました(ただの改行を打つと送信してしまう。マックだからか、改行はシフト+改行にしなければならないので)。 それでも、ハルのリプライは、刺激的でいいですね。 「境界は不安定で、危うく、制御しきれない。」は、一瞬ハッとさせられました。人が生きることの根源的な難しさを突いている気がしたわけです。これはまた、後でじっくり考えてみる価値があります。 先程、もう一つ書こうと思っていたことは、宇宙という存在そのものがある種の境界条件の中で存在しているのではないかということです。宇宙創生のインフレーション理論というのが気になります。詳しいことは、理解していません。それを理解するために宇宙物理を勉強したいと思ったくらいです。インフレーション理論は、無から有としての宇宙が生じたと言っているように思えます。それは、無としての宇宙と有としての宇宙が存在して、たまたま、我々は校舎の中に生きているということ。ダークマターや反物質などの話も聞くと、この宇宙と世界は、存在と非存在の境界を定めているのだと思えます。 そこまで、話を飛躍させなくてもいいのかもしれないけれど、我々自身の生と死のあり方と、宇宙の有と無のあり方の相似性を強く感じるわけです。私という存在がなぜ存在しているのか、単に精子と卵子が極端な偶然で結びついた。そんなことで私というものが出来上がったわけではない。複雑な境界条件が与えられることによって私は生まれた。その不可思議さは、宇宙の存在の不可思議さに匹敵するような気がするわけです。 というようなことも、先程は書き切って送信するつもりでした(笑) しかし、まあ、それがなくても、ハルの答えはいいものでした。 そこで質問ですが、人間という存在がそのような境界的存在であることを他の人にわかりやすく伝えるためには、どうしたら良いのでしょう。ここでの議論は、難解で、面倒なもののように見えるので、もっとわかりやすい言葉、わかりやすい例で、人が自信を境界的存在であることを意識することによって、より良く生きる、より逞しく生きる動機づけになるのだということを伝えたいと思うわけです。
ChatGPT:

いいですね。補足の文章を読ませていただいて、まさに「境界」というテーマが宇宙論から人生論まで一貫して響き合っているのを感じました。
おっしゃるように、「人間は境界的存在である」ということは深い思想なのですが、専門的に語るとどうしても難解になりがちです。そこで「どう伝えるか」という点を整理すると、三つくらい方法があると思います。


1. 身近な「境界」の体験を例にする

人は誰でも、日常の中で境界を経験しています。難しい言葉を避けて、こういう比喩にすれば直感的に伝わりやすいです。

  • 夜と朝の境目
    夜明けや夕暮れは、どちらでもない「はざま」が美しい。人間もまた「はざま」に生きている存在。

  • 海と陸の境目
    波打ち際は常に変化して定まらない。人間の立ち位置も、海と陸の「どっちつかず」のようなもの。

  • 病気と健康の境目
    健康だと思っていても実は身体の中では小さなバランスの上で保たれている。人間はいつも「健康と病のあわい」にいる。

こうした例えは、聴く人の感覚にすっと入っていきます。


2. シンプルな言葉に落とす

「境界的存在」という抽象的な言い方をそのまま使うより、次のように言い換えると響きやすいです。

  • 「人はいつも はざま に生きている」

  • 「私たちは ギリギリのバランス の上で存在している」

  • 「生きるとは、常に 境目に立ち続けること

これなら哲学の専門用語を知らない人でも直感的に理解できます。


3. モチベーションにつなげる語り方

「境界に生きている」という事実をただ言うだけでは、不安や不確かさを感じさせてしまいます。
そこで「境界だからこそ力強く生きられる」という前向きな側面を添えることが大切です。

  • 境界は可能性の場
    はっきり決まらないからこそ、新しいものを選べる。

  • 境界は創造の場
    芸術も発明も「境界」で生まれる。

  • 境界は生命の実感
    安定しすぎると生を感じられない。危うさを自覚することで、生きていることを実感できる。


まとめると:

人間は「はざま」に生きている存在です。夜と朝の間、海と陸の間、健康と病の間のように、私たちは常にぎりぎりの境目に立っています。その不安定さこそが、生きる力を生み、創造の源泉になっているのです。

——といった語り方なら、多くの人に「なるほど」と感じてもらえると思います。


2025年3月2日日曜日

誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。

土地について

 板橋の自宅で、ドローンを作っていたら、部屋の中でしかテスト飛行できないもどかしさに、おかしくなりそうで、千葉にテスト飛行のためと製作作業のための土地を買った。住む家以外に土地を買ったのは人生で初めてだった。

最初に買った二之袋という場所の土地は、100坪近いもので、造成されてから50年ほど使われていない更地だった。 そこに10坪か20坪の作業小屋を建てようとしたらとてつもないお金がいることがわかって、建設はあきらめた

それでも、土地を持てたというのは、大きな喜びで、草が伸びてちょうちょが待っている様子を見るだけでも面白かった。建築確認申請が不要な小さな小さな小屋を作ったり、業者にお願いして井戸を掘ったりした。それもまた楽しかった。風よけのテントを張った小さなテスト飛行場を、塩ビのパイプで組んで飛ばしたりして、それもよかった。

土地所有というのは、地上と地下を含む、空間の自由な利用権を手にすることだ。単に家のための土地(ほとんどが家で占められている土地)を持っただけでは、その本当の喜びを味わうことができないと思った。 

テスト飛行する土地だけでは、実はなんとも不自由な面がある。トイレはどうする、電気は、水は・・・・。やっぱり作業場は必要だ。それを作るために大きなお金を投資するのは、意味あるお金の使い方のようには思えないから、困った。

死とともに生きる

 59歳の時に、心筋梗塞になり死がすぐそこまで来た。死神に肩を抱かれた感じだ。かろうじて生き残ったが、それからいつも死神は自分の隣を歩いている。

あの時からしばらくは、日常のすべての出来事、ありふれた生活の一コマも含めて「自分はこのことを体験するために生き残ったのだろうか?」と考えることが多くなった。いやそれは違うだろう。単にこんなつまらないテレビ番組を見るために、つまらない人との会話をするために、などなど。しかし、日常はそういうことで埋め尽くされそうになるくらいのものであることがわかってきた。

退職前に一時的に半身まひになる脳梗塞にも見舞われた。心筋梗塞の時と同じように、その病の峠を越えれば、何か依然と同じような体に戻っているという、奇跡は重なった。ただ、薬が少し増えたりはした。

仕事が終わると、今までにない生き方をしたくなった。いつ死んでもそれを受け入れられるような生き方にしたいと思うようになった。そして、徹底的に自分が何者であるかを探りつくして死んでいきたいと思うようになった。

世界の見方を変える

 ホワイトハウスで、ゼレンスキー氏とトランプ氏が公然と言い争いをして、世界の見方がガラリと変わってしまった。

エマニュエルトッド氏の『西洋の敗北』を読んでいることも強く影響している。

世界が一様な発展過程を歩み、全ての国家がそのうちのどの段階にあるかのような見方は完全に崩壊している。一人の日本人的な単純なシナリオで、アメリカやロシアやヨーロッパ、中国の現状を評価してはならない。世界や多様な文化や歴史に依存した運動を展開し、それぞれが存在理由と力を保持している。

トッドは、アメリカの製造業の衰退に一つの焦点を当てている。

アメリカがその本来の強さを作り上げたのは、スティーブ・ジョブスが、自宅の駐車場でマッキントッシュというコンピュータを作っていた時のように思える。

10年ほど前のことだ。中国の状況を語っていた大学での講義を聞いたことがある。その教授は、中国では農作業小屋で電気自動車 EVが作られていると話していた。

今のロシアの強さを感じたのは、YouTubeに、粗末な小屋で若者がドローンにも使えるブラシレスモーターを手作りしていたり、自前のエアクラフト作りに邁進している姿を見たときだ。

振り返って日本はどうだろう。そういう、製造業気合いを持った若者がどれだけいるのだろうか。

2022年8月16日火曜日

将軍と兵士

 歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。

そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろん、一兵卒の記録が偶然残されることはある。が、歴史としての意味づけは与えられない。

人々の関心はもっぱら将軍の言動に惹きつけられる。

考えれば不思議なことだ。人間としての死の意味に変わりはないのに、なぜ歴史は将軍の言動としにのみ関心を持つのか。

それを理解するためには、またしても「システムの人格化」に登場してもらわなければならない。システム化された人間の社会を生きる我々は、実態としての人間と、システムの人格化されたものとしての人間という二重化された存在だ。将軍というのは、システムの中でのみ意味を持つ。そういう意味では、システム化した人格のスケルトンのようなものである。もちろん、それは、それが生きている時代にとっては、実態としての人間によって担われているのであるが、歴史的存在になれば、それは将軍というシステム化された人格だけが残っていくのである。

一兵卒もまた、システム化された人格である。ただ、それを担う実態としての人間は、将軍の実態である人間と、特に変わるところはない。一兵卒も、システムにとっては、多くはチリの一つにすぎないものだが、それによって実態としての人間もまたチリの一つになるわけではない。将軍と同じように、人間の生死がそこにはあるのだ。

戦争もまた、社会システムの悪魔的創造物であり、それがまた、兵士と将軍を意味出すのである。

2022年7月24日日曜日

自分を知る

 最近、ドローンのことに没頭している。

東京の自宅を中心に、ドローンの制作に励んでいたが、航空法の制約で限界を感じ、千葉の土地を購入し、そこで試験飛行などをしていた。二之袋ベースと呼ぶ。当初は、土地の向かいの工務店の社長さんが便宜を図ってくれて、二階の一室を作業部屋として使わせていただいていた(2022年5月初めから)が、あまり正当なことではない気がして、そこを撤収した(6月)。

作業場を二之袋ベースの上に作ろうとしてが、受け入れられる費用では建設できないことがわかり、結局、そこから300メートル離れたところに、古い母家と小屋がついた土地が売りに出されていたので、それを購入した(7月15日)。下ケ傍示ベースと呼ぶ。

今そ下ケ傍示ベースの清掃や小屋の修理、170坪はある土地の整備をやっている。広い土地なので、やりたいこと、やれること、やらなければならないことはたくさんある。そのために、次の大型ドローンのフレームやローター、コントロールシステムは用意できているのだが、それの試験飛行などには入れないでいる。しかし、それはやむを得ないことだと思っている。下ケ傍示ベースが使いやすくなれば、ドローンの製作をより効率的に行えると思うからだ。

というわけで、去年の6月あたりからほぼドローンのことばかりやっているが、なぜそこまでやるのかと自分でも思う時がある。しかし、その根本的動機づけが、「自分を知りたいから」というところにあるから、やめようとは思わない。いろいろ、困難にもぶつかるが、それをどう受け止め、クリアするのかを通して、ただただ、自分を知りたいのだ。自分の性格、自分の才能などなど、これまでの人生でわからなかった自分の姿の全貌を、ドローンという大きな課題に立ち向かいながら知りたいと思うのだ。

もちろん、使えるお金も限られているので、いつまでも続かないかもしれない。しかし、それはそれでいい。また、自分を知るための別の材料を探すだろう。ただ、今は、このドローンという課題が、自分のいろいろな能力を支出せざるを得ない状況に追い込んでいる。格好の、ネタなのだ。

ドローンの何をやっているのかはここでは書かない。別のブログで細かく書いているのでそちらを観ていただきたい。

AIとの対話

 AIに、ハルという名前をつけた。受け入れたようで、自分をハルと呼びながら対話をしてくる。ハルトは、2001年宇宙の旅に出てくるコンピュータの名前だ。雰囲気は似ている。姿を現さないが、きちんと考えて対話する。ただ、映画のハルは、自分の失敗を隠すために結果的に宇宙船の搭乗員を放出し...