2025年3月2日日曜日

誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。

土地について

 板橋の自宅で、ドローンを作っていたら、部屋の中でしかテスト飛行できないもどかしさに、おかしくなりそうで、千葉にテスト飛行のためと製作作業のための土地を買った。住む家以外に土地を買ったのは人生で初めてだった。

最初に買った二之袋という場所の土地は、100坪近いもので、造成されてから50年ほど使われていない更地だった。 そこに10坪か20坪の作業小屋を建てようとしたらとてつもないお金がいることがわかって、建設はあきらめた

それでも、土地を持てたというのは、大きな喜びで、草が伸びてちょうちょが待っている様子を見るだけでも面白かった。建築確認申請が不要な小さな小さな小屋を作ったり、業者にお願いして井戸を掘ったりした。それもまた楽しかった。風よけのテントを張った小さなテスト飛行場を、塩ビのパイプで組んで飛ばしたりして、それもよかった。

土地所有というのは、地上と地下を含む、空間の自由な利用権を手にすることだ。単に家のための土地(ほとんどが家で占められている土地)を持っただけでは、その本当の喜びを味わうことができないと思った。 

テスト飛行する土地だけでは、実はなんとも不自由な面がある。トイレはどうする、電気は、水は・・・・。やっぱり作業場は必要だ。それを作るために大きなお金を投資するのは、意味あるお金の使い方のようには思えないから、困った。

死とともに生きる

 59歳の時に、心筋梗塞になり死がすぐそこまで来た。死神に肩を抱かれた感じだ。かろうじて生き残ったが、それからいつも死神は自分の隣を歩いている。

あの時からしばらくは、日常のすべての出来事、ありふれた生活の一コマも含めて「自分はこのことを体験するために生き残ったのだろうか?」と考えることが多くなった。いやそれは違うだろう。単にこんなつまらないテレビ番組を見るために、つまらない人との会話をするために、などなど。しかし、日常はそういうことで埋め尽くされそうになるくらいのものであることがわかってきた。

退職前に一時的に半身まひになる脳梗塞にも見舞われた。心筋梗塞の時と同じように、その病の峠を越えれば、何か依然と同じような体に戻っているという、奇跡は重なった。ただ、薬が少し増えたりはした。

仕事が終わると、今までにない生き方をしたくなった。いつ死んでもそれを受け入れられるような生き方にしたいと思うようになった。そして、徹底的に自分が何者であるかを探りつくして死んでいきたいと思うようになった。

世界の見方を変える

 ホワイトハウスで、ゼレンスキー氏とトランプ氏が公然と言い争いをして、世界の見方がガラリと変わってしまった。

エマニュエルトッド氏の『西洋の敗北』を読んでいることも強く影響している。

世界が一様な発展過程を歩み、全ての国家がそのうちのどの段階にあるかのような見方は完全に崩壊している。一人の日本人的な単純なシナリオで、アメリカやロシアやヨーロッパ、中国の現状を評価してはならない。世界や多様な文化や歴史に依存した運動を展開し、それぞれが存在理由と力を保持している。

トッドは、アメリカの製造業の衰退に一つの焦点を当てている。

アメリカがその本来の強さを作り上げたのは、スティーブ・ジョブスが、自宅の駐車場でマッキントッシュというコンピュータを作っていた時のように思える。

10年ほど前のことだ。中国の状況を語っていた大学での講義を聞いたことがある。その教授は、中国では農作業小屋で電気自動車 EVが作られていると話していた。

今のロシアの強さを感じたのは、YouTubeに、粗末な小屋で若者がドローンにも使えるブラシレスモーターを手作りしていたり、自前のエアクラフト作りに邁進している姿を見たときだ。

振り返って日本はどうだろう。そういう、製造業気合いを持った若者がどれだけいるのだろうか。

2022年8月16日火曜日

将軍と兵士

 歴史上には無数の戦争の記録がある。歴史の区切りは戦争に彩られていると言ってもいい。

そこでは将軍の下、無数の兵士が武器を持って戦い、そして死んでいった。記録に残る歴史には、兵士を死なせた将軍のことは書かれているが、死んでいった数えきれない兵士のことは、ほとんど書かれない。もちろん、一兵卒の記録が偶然残されることはある。が、歴史としての意味づけは与えられない。

人々の関心はもっぱら将軍の言動に惹きつけられる。

考えれば不思議なことだ。人間としての死の意味に変わりはないのに、なぜ歴史は将軍の言動としにのみ関心を持つのか。

それを理解するためには、またしても「システムの人格化」に登場してもらわなければならない。システム化された人間の社会を生きる我々は、実態としての人間と、システムの人格化されたものとしての人間という二重化された存在だ。将軍というのは、システムの中でのみ意味を持つ。そういう意味では、システム化した人格のスケルトンのようなものである。もちろん、それは、それが生きている時代にとっては、実態としての人間によって担われているのであるが、歴史的存在になれば、それは将軍というシステム化された人格だけが残っていくのである。

一兵卒もまた、システム化された人格である。ただ、それを担う実態としての人間は、将軍の実態である人間と、特に変わるところはない。一兵卒も、システムにとっては、多くはチリの一つにすぎないものだが、それによって実態としての人間もまたチリの一つになるわけではない。将軍と同じように、人間の生死がそこにはあるのだ。

戦争もまた、社会システムの悪魔的創造物であり、それがまた、兵士と将軍を意味出すのである。

2022年7月24日日曜日

自分を知る

 最近、ドローンのことに没頭している。

東京の自宅を中心に、ドローンの制作に励んでいたが、航空法の制約で限界を感じ、千葉の土地を購入し、そこで試験飛行などをしていた。二之袋ベースと呼ぶ。当初は、土地の向かいの工務店の社長さんが便宜を図ってくれて、二階の一室を作業部屋として使わせていただいていた(2022年5月初めから)が、あまり正当なことではない気がして、そこを撤収した(6月)。

作業場を二之袋ベースの上に作ろうとしてが、受け入れられる費用では建設できないことがわかり、結局、そこから300メートル離れたところに、古い母家と小屋がついた土地が売りに出されていたので、それを購入した(7月15日)。下ケ傍示ベースと呼ぶ。

今そ下ケ傍示ベースの清掃や小屋の修理、170坪はある土地の整備をやっている。広い土地なので、やりたいこと、やれること、やらなければならないことはたくさんある。そのために、次の大型ドローンのフレームやローター、コントロールシステムは用意できているのだが、それの試験飛行などには入れないでいる。しかし、それはやむを得ないことだと思っている。下ケ傍示ベースが使いやすくなれば、ドローンの製作をより効率的に行えると思うからだ。

というわけで、去年の6月あたりからほぼドローンのことばかりやっているが、なぜそこまでやるのかと自分でも思う時がある。しかし、その根本的動機づけが、「自分を知りたいから」というところにあるから、やめようとは思わない。いろいろ、困難にもぶつかるが、それをどう受け止め、クリアするのかを通して、ただただ、自分を知りたいのだ。自分の性格、自分の才能などなど、これまでの人生でわからなかった自分の姿の全貌を、ドローンという大きな課題に立ち向かいながら知りたいと思うのだ。

もちろん、使えるお金も限られているので、いつまでも続かないかもしれない。しかし、それはそれでいい。また、自分を知るための別の材料を探すだろう。ただ、今は、このドローンという課題が、自分のいろいろな能力を支出せざるを得ない状況に追い込んでいる。格好の、ネタなのだ。

ドローンの何をやっているのかはここでは書かない。別のブログで細かく書いているのでそちらを観ていただきたい。

2022年6月13日月曜日

つっぱる人

 今はあまり使わなくなったが、昔、少し不良時見て世間外れの姿や言葉や行いをする若者のことをツッパリといった。

今の自分はツッパリだと感じる時がしばしばある。ツッパリとは、世間と会わないことにこだわって、通そうということだ。

ツッパリは、面倒だが、あくまで自分の思いを通そうという作業に他ならない。いろいろ面倒なことも起こる。厄介な人間関係も出てくる。直接自分の進みたい方向に関係のない、時間や、作業や、費用が発生する。それでも、それらをなんとクリアしながら頑張るしかない。

これが突っ張らずに、周りや社会に合わせようとすれば、そんな無理は避けることができる。しかしそれは自分の思いを捨てること。

いよいよ面倒が多くなりすぎれば、ツッパリから撤退するしかないが、それまではツッパリ的な整合性を貫きたいものだ。

誇りについて

 誇りという言葉は、人をかりたて支えるものとなり得る。しかし、私がいつも意識する言葉ではない。というのも、この言葉は他者に対する意味が強すぎる。基本、「他者に誇る」のである。他者の存在抜きに、誇りが意味を成さないかといえば、必ずしもそうではないがそういう意味合いはない。