最近AIと対話していて、自分は業偏屈なんだと思った。
「業偏屈?なにそれ」と、大概の方は思うだろう。これは私が作った言葉だから、日本語にはない。疑問を持つのは当然だ。
もともとAIとの対話の出発点は、イーグルスの「Desperado」という歌の歌詞をどう解釈するかだった。Desperadoとは荒くれ者、無法者、西部劇に出てきそうなただひたすら悪者のキャラである。その言葉にそれほど深みはなく、英語圏の人はただただそういう無法者をイメージするらしい。ところが、イーグルスがそれを愛すべきバラードのタイトルとしてしまったから、その言葉に少し違う、深みのあるニュアンスが乗ってしまった。それがどんなニュアンスか、感情かについて、正解はない。その正解のない感情について、それはなにか、AIと対話したのだ。
私はその歌は確かに、その自分の生き方にこだわり、人の愛も簡単に受け入れず、クインーよりダイヤのトランプを求め、自由への心情のもとに壁を作り塀の上に乗り続けて自ら孤独を求めるような生き方をするあいてにたいして、たしかにそれを悲しんで、諭している言葉が並んでいるのだけれど、その生き方を愛おしくおもい、受けれているような感情が伝わってきたのだ。そして、自分の生き方は、この差とされている側の人間の感情に近いと思った。そして、AIにこの愛おしさと受容をまぶしたDesperadoに対応する日本語はいのかとぷろんぷとをかいたのだった。AIが出してくる言葉に、なかなかしっくりするものはなかったが、最後に、「業」という言葉と「偏屈」という言葉を出してきた。偏屈とは、変わり者のことだ。人格の偏りがあるレベルを超えている感じだ。ただそれは、おそらく「狂気」まではいかない。ある意味それなりの中途半端さを持っている。偏屈だけだったら、愛おしみ、受容されるというニュアンスを含むことができない。しかし、それに「業」という言葉が連動すると一挙に状況が異なってくる。業とは、その本人の意志ではどうにもならない、受け入れざるを得ない、輪廻転生の果にあらわれるものであり、前世までの行いの全ての結果から成立する自分の成り立ちである。当人の責任ではないものに、当人が振り回される、可哀想な状況になってしまうのである。行に支配された人間の哀しさと、それを憐れみ、しかしその業を全うしようとする、業に従わざる得ない、その人間を愛おしむ感情がつきまとってくる。業がもたらす偏屈に対するおかしさ、愛おしさが表現したい感情にかなりピッタリと来たわけである。
自分が業偏屈であると自覚し、少なくとも自分の中ではそう自分を表現することによって自分に対する愛おしさ、受容性を感じることが、鮮明になる。自分というものに対する愛おしさが、自分が業偏屈と表現されれることによって対象性が明確になる。