神戸大学に赴任したのは40歳の時だから、31年前だ。その頃、昔、学生だった同じ時間を共有した嚶鳴寮生用にメーリングリストを立ち上げた。最近は30人ほどが登録していた。長年、運用と管理をしてきたが、それを一方的(全体の了解もなしにの意)に、今度閉鎖することにした。その時の通知文をここにコピペしよう。
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嚶鳴寮OBのみなさま、鷲田です
雨の日が続いて鬱陶しいですが、みなさまは、お元気でお過ごしのことと拝察いたします。このMLですが、すでに集いの場としての役割を終えていますので、今月の下旬、およそ20日以降に停止の手続きをしたいと思います。
メーリングリストというコミュニケーション手段は、昭和レトロそのものなので、使い勝手も悪く、アカウントにぶら下がっていて、メンテナンス自体も、色々気にしないといけないので面倒です。
私が神戸大学に赴任した頃に始めたので30年ほど続けてきました。特に終活というわけではありませんが、もうenoughという感じです。
これからは、必要な方は、LINEグループなり、SNSでやり取りすることが適切だと思われます。
私も経過は忘れましたが、下の学年の寮生の小さなグループになんだか入っていて、誘われてたまに東京で飲んだりしています。
ここでお会いすることはもうなくなりますが、私としては、たとえ先が短くても、精一杯、失敗を恐れず、人生をかけた挑戦の日々を続けていく決意です。
みなさまにも、今後も健やかに、楽しい日々を過ごされることを祈念して、終わりの挨拶にします。
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なんともぶっきらぼうな文章だ。反発を感じた人もいたと思う。「勝手にやめるな」と言われれば、どうするか考えたかもしれないが、そんなことを言う人はいないだろう。それほどの熱意をこのMLに持っていれば、もっと違う参加の仕方をしただろうと思う。
このMLで実現したかったのは「今の嚶鳴寮」を仮想的に再現することだ。あのコミュニケーションのるつぼのような寮を、今生きている人で、このML上で再現したかった。しかし、それは無理だった。
過去の嚶鳴寮では一方的なコミュニケーションにはならなかった。双方向性は必然的なものだった。なぜなら、口から発した言葉が相手に届き、耳が聞こえる限り、完全な無視はできないものだった。LINEにも既読スルーというのは、やってもいいが、それはそれとして意味を持ち、できれば避けるべきものというニュアンスがある。しかし、MLは、単に返事しないのか、見てないのか、完全に無視しているのか、全くわからない。しかも、LINEとはちがって、ほんのひとこと「了解です」を送るためにメールを使うことは違和感がある。
要するに面倒なコミュケーション手段なのだ。昭和レトロな匂いがプンプンする。
私は管理者なので、存在意味を確認するためにも、「1年にほんの数回(最低1回は)」、まとまって何かを書いたりするが、反応する人は本の一人か二人、あとはROMだ。せめて半分くらいの人が一言でも反応すれば、そうなのか、と了解できるのだが、それもない。お前の文章なんて見たくないんだよと、思っている可能性も憶測したりする。そんなことを考えると、こちらの心が傷つく。SNSの時代に、こんなコミュニケーション手段は、絶望的だ。
一方的になることは覚悟で、念頭の挨拶くらいは送ろうとしていたが、それもしんどくなった。私は管理者だから、なんとかMLの存在意味を確認したいと思うが、それができなくなったので、閉鎖することにした。
このMLの話は、前置きのようなものだ。嚶鳴寮について、このさい書いておこうと思ってブログを開いた。
今年の5月に、嚶鳴寮の私の学年、ひとつ上くらいの学年に絞った同窓会があった。去年から誘われていたが、参加しなかった。主催者から何故参加しないのかと、お叱りの電話ももらったが、結局参加しなかった。去年、幹事の一人の長谷川くんに、参加するかどうか返事をしなくてはならないときに書いたメールをここにコピペしておく。(面倒なので何でもコピペだ)
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長谷川くん、鷲田です
嚶鳴寮の集いの作業、ご苦労様です。
お返事しなければならないのですが、
現状、参加したいという気持ちは乏しく、かといって、当日何か用事があるわけでもありません。
おそらく参加しないと思います。
友達は、昔、大切な青春の時期を共に過ごした者ということで良いという気がします。
それから、半世紀近く、その当時の時間とは比べ物にならないくらい長い時間を
過ごしてきて、その中の数えきれない出来事、数えきれない人との出会い、喜びと苦難と努力、そのつもり積もったものとして今の自分がいます。その中で得たもの、失ったもの、変わってしまったもの、それもまた半端ないほどになっています。それを語り合ってわかりあうなどというのは短い時間ではとてもできません。何かしら、薄っぺらな会話を交わして、理解できずに、誤解のままに、終わるくらいなら、昔のままの自分をイメージしてもらってもらったほうがいいような気がします。
参加する前から、そこでの会話が想像できるような気がします。自分が今一番大切なことを伝えたい、わかってほしい、とは思っても、それは単なる言葉のやり取りではとても無理なのです。お互いに、「頑張って今日まで生きてきたんだね」という共感は得られるかもしれませんが、それは、語り合わずとも分かり合えるものだと思います。
AIに、そんな同窓会に参加すべきかどうかを尋ねてみました。AIは、「自分の原点を確認する意味でも参加した方がいい。また新たな発見、新たな出発の契機になるかもしれないよ」と、いつものように前向きの回答を投げかけてきました。が、そのような前向きな方向を、いつものように私は却下しました。
寮時代の友だちとは、寮という一つの大きな花火にぎゅうぎゅうに詰まっていた火薬の黒い小玉みたいなものです。それはいつか打ち上げられて、大きく飛び散って、それぞれの場所でそれぞれの色で輝くもので、それぞれの人生の輝きを遠くから見ていればいいのだと思います。改めて、何かしら、小玉に戻って会話することは難しいです。
火薬のこだまの時は、お互いの本心の色は完全に見えないでいます。だからこそ一つの場所に入れたのです。しかし、お互いに人生を燃やし輝かしたいま、ある意味、その人間の本質的なものがそこでようやくあらわになっているという面もあると思います。それを今更確かめたいとも思わないのです。
変わってしまった自分から見て、昔の友達のそうした大切な個性が合わないと思うこともあります。今だったら受け入れられないだろうというものもあるかもしれません。そのことに落胆するかもしれない場をあえて求めようという気にもなれません。
ひたすらネガティブなことを言って申し訳ありません。
長谷川くんらの努力に水を刺すようなことを言って申し訳ありません。
適当に言葉を誤魔化すのが嫌なので、思っていることをストレートに書きました。
私のように、変な感情を持つような人間は稀でしょう。健全な精神を持っている皆さんが、このような機会に楽しく充実した時間を過ごすことは素晴らしいことだと思えるし、また、そう受け入れられる皆様を羨ましくも思ったりします。
成功を心から期待しています。
返信は不要です。
鷲田豊明
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