旧愛知県立図書館の情報を探していても、具体的なものはほとんどないため、やや悲しくなって、ここに書いておこうと思い立った。
おそらく私が県立図書館に足繁く通ったのは1981年から83年ぐらいまでだったと思う。その頃私は、新栄にある事務所に通勤していた。結婚し子供もいた。26歳頃だっただろう。私は、大学は工学部電気工学科を卒業した人間だが、思想遍歴の中でマルクス経済学に傾倒した。資本論や剰余価値学説史、さらにはさらには資本論草稿集まで読み漁っていた。経済学は良かったがその周りにまとわりついている史的唯物論は、思想としては許容し理解してはいても、厄介だった。その思想が力になるのは、よほど限られた人しかいないと思えた。それを議論する学者の思弁的な冗長な議論に辟易していたのだと思う。純粋に経済学を勉強したかった。マルクス経済学を学ぶうちに、それを数学的に議論する研究者がいることを知った。神戸大学の置塩信雄教授だった。その人の考え方を追ううちに、片足がマルクス経済学から離れ、離れた片足が近代経済学にハマっていった。
その頃から愛知県図書館に通うようになった。今どきの図書館から見ると、古色蒼然とした場所だった気がする。元々、図書館のために建てられたものではなかったのではないか。入り口に長い横長の階段があった気がするが、記憶違いのようだ。主に2階に上がって、本を見ていた記憶がある。
置塩の本をそこで読んだ。お金はないので、なるべく本を書い出費を減らしたかった。図書館に置かれていた、産業連関表という分厚い統計データの本にも出会った。大学では情報工学の講座にいたこともあり、これをコンピュータで分析すれば、いろんなことがわかるはずだとも思った。
置塩信雄のもとで勉強することに憧れた。職場の先輩が、もし経済学を勉強したいなら、社会の底辺に落ちる覚悟をしてやりなさい、そこから這い上がり浮き上がる気合いでやりなさいというようなことを言われた記憶が残っている。仕事を辞めて、大学院に行くことを決めた。1982年の正月頃だったと思う。家族を抱えながらだったが、収入は妻に依存して、ひたすら神戸大学の経済学の大学院に行くことを目指した。何しろ、工学部出身だった。工学部出身でも入れるかどうかを確かめるところから始めた。
それからは、毎日妻の作ってくれた弁当を持って愛知県立図書館に行って勉強した。
図書館で、昼ごはんを食べた。図書館には地下があった。今ではなぜそこまでするのかと思うが、地下には、そこでご飯を食べる人のために、いくつかの大きなやかんにお茶が用意されていた。今思うと、涙が出るほど素敵なサービスだと思う。仕事も辞め、たいした収入ではなかったが、その収入も諦めて、ただ、叶うかどうかわからない経済学の大学院に行く夢を追っている自分は、常に何か惨めな存在だと思っていた。街から弾かれて生きている感じが強くしていたものだ。そんな人間を暖かく受け入れてくれている感じがしたものだった。オアシスだった。
もちろん、私だけがそこを利用しているのではない。地下のその部屋は、結構広かったと思う。別に満員になるわけではなく、まばらに人がいるだけだった。その中には、毎日会う人もいる。別に話しかけるわけではなかったが、今でも頭にその雰囲気が残っている人もいる。その人は、二階で会う時は、いつも電卓を叩いていた、税理士か会計士の試験を受けるためだろう。その電卓を叩く速さに驚嘆した記憶がある。きっとあの人は大成しているだろうともう。生きている気迫が電卓を打つときも、弁当を食べる雰囲気にも現れていた。
半年以上、図書館に通い続けた。なんとか神戸大学大学院経済学研究科の理論経済学の専攻で合格できた。憧れていた置塩信雄のゼミに参加することができた。最高に幸せな時代だった。
常に自分は、ゼロだったと思っていた時代、学問への出会いをサポートし、その時代の「居場所」を提供してくれたのが、旧愛知県立図書館だった。その愛知県立図書館がなくなってしまったことを知って、どれほど寂しかっただろう。
誰か、文集をつくろうとでも言ってくれないだろうか。
2025年11月24日月曜日
旧愛知県立図書館の思い出
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